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少年アフマド

前:

※冒頭で言っておくと、今回はオチがちょっと感動的です。


「しばらく、私の従姉妹を泊まらせてもいい?」

ある日、同居人のヤスミンが言い出した。私の方はすでに何人もの友達を泊まらせている。

寝室も余っていることだし、そもそもこの邸宅はヤスミンの母親の持ち物。

「どうぞどうぞ」と私はニコニコ答えた。


そうしてやってきたヤスミンのまたいとこ(はとこ)、ワルダ。(ちなみにワルダとは"薔薇"です)

ワルダは170cmは余裕で超えている長身で、エジプト女性としては珍しい、ガリガリの体型だった。年頃は20代前半だった。

見た目や年齢はともかく、びっくりしたのは彼女の背後に、小さな坊やもいたことだった。


「彼女がワルダよ」と

玄関口のところで紹介されたのはいいが、そこの小さな男の子...

「ミーンダ(誰だ)!?」 思わず声をあげた。

「ワルダの息子なんだけど...一緒にいいでしょ?」ヤスミンがおそるおそる言った。

えっ!?? まさかの子連れスティ!? 事前に聞いていないんだが!


ワルダは十代で一回り年上の男性と見合い結婚。数年後、医者の夫は湾岸(クウェート)に出稼ぎに。年に1回はエジプトに里帰り。

が、ついこの間、一方的に離婚届けが国際郵便で送られてきた。(エジプトでは、夫が一方的に離婚手続きを行えた)

理由は、元夫がクウェートで別の女性とくっつき、そっちと双子の赤ちゃんが出来た。で、ワルダと息子のアフマドはもうお払い箱だ、と。

もっとも、元夫さんからの話は何も聞いていないので、元夫さんの言い分はわからないものの、元夫名義の家から4歳の息子と一緒に追い出されたのは事実だった。(普通、実父は息子を追い出さないので、なかなか珍しいケース)


「ワルダは行き場がないの。両親とも折り合いが悪いから実家に戻れないし、元夫に家を追い出されたし...仕事を見つけて自立できるまでは滞在させてあげたいのだけど」とヤスミン。

...

嫌だ、と言える訳がなく渋々承知した。


こうして大学生のヤスミンと、バツイチの無職ワルダとその4歳の息子との摩訶不思議な同居生活が始まった。

ワルダは本当に文なしだったようで、ヤスミンが全てのお金を出してやっていた。

なんでも離婚の際に慰謝料も貰っていないという。

エジプトでは、結婚の時に「万が一」離婚する時に備えて、慰謝料の金額だけでなく、土地家具全ての財産分与を決めておく。確か、婚姻届にもそのような項目もあったはず。

だけど、一言で言えば、ワルダはちゃんとお金を貰えなかったのだろう。


ところで、ヤスミンは相変わらずだった。

今カレのモハンマド(下っ端警察官)と、元カレのヤーセル(お金持ちのドラ息子)を交互に家に招いていた。

いずれ二人は鉢合わせするだろう、いずれ近所でも噂されるだろう、とこっちがハラハラドキドキしっぱなしだった。

ちなみにモハンマドかヤーセルのどっちが来ているか、私は2階の自室に篭っていてもすぐにわかった。

バタ臭い野暮なエジプトポップスの音楽が階下から聞こえてきたら、ルクソール出身田舎者のモハンマドが来ている証拠。

オアシスU2などオシャレな洋楽が流れてきたら、ロンドン留学経験もあるヤーセルが今、下にいるなと...

でも、モハンマドもヤーセルも、彼女のはとこのために職探しをしてやろう、というのは全くなかった。結局、ヤスミンとは浮ついた関係に過ぎなかったのだろうな...


高校も卒業していないワルダは英語もほとんど喋れず、ワープロも触ったことがなかった。

そもそも、経歴だとかスキル有無を問う以前に、肝心な本人が就業する気が全くないのが問題だった。

せっかく、ヤスミンがいろいろ勤め先の話を人づてで持ってきても、ワルダはあれこれ難癖を付け、面接に行ってみようとしていなかった。

いつだって鬱病気味になっており、情緒不安定もいいところ。表情がなく暗い顔でタバコを吸い続けるだけ。

息子が大泣きしても騒いでも、無反応。テレビを見ていても食事をとっていても、表情は虚ろ。職探しどころか、生きようとしていなかった。


1,2週間で新居と仕事を見つけて、息子を連れて出て行く、という話だったが、気がつくと早一ヶ月。やっぱりね、とため息...

でも仕事もお金も行き場もない子持ち女性に「そろそろ出て行って」など言えやしない。



しばらくたったある日の夜だった。

私が出先から家に帰るとびっくりした。泣き続けるアフマドひとりしかいなかったのだ。

「ママ、フェーン!?(ママどこ)」と聞いても泣きじゃくるだけ。

ヤキモキして待っていると、派手な格好をした上機嫌なヤスミンとワルダが戻ってきた。

なんと、仲間たちとケニーロジャースのチキンレストランで大騒ぎして楽しい時間を過ごしていたのだという。

「なんで4歳の子供をひとりで残して行ったのよ!?」

私がぶちキレると、二人して

「マーレッシュマーレッシュ」。ま、いいじゃないの、をニコニコして繰り返す。

「近所だし、アフマドはぐっすり寝ていたから」と呆れる言い訳をしてきた。


しかしこれがきっかけで、ワルダは外で遊ぶことを覚えてしまい、またいざとなれば私が息子を見てくれるだろう、と思ったのだろう。

それから夜な夜な、ふらっと遊びに出るようになった。

文句を言うと、急にワルダの鬱病のような症状が発症し、身内のヤスミンの言い分は

「ワルダは気が滅入っているから気分転換のために外でエネルギーを発散しないと!」。

今思えば、毎晩クラブやバー、レストランに繰り出すよりも、カウンセラーや精神科に通うべきだったんじゃないかな。

でも当時はメンタルの病気というものが、今ほど知られていなかったから、私にもそういう発想は全くなかった。児相もなかったしなあ。


でも、夜遊びはそれなりに功を奏し、若干彼女は明るくなっていった。

もともと、十代という若さで嫁いでいるので、遊びたい年頃にそれができなかったという反動もあるのだろうか。服装もメイクもどんどん派手になっていった。

が、大勢の友達ができてはつらつしてきたのはいいことだったが、同時に態度がふてぶてしくもなってきた。

居間のテレビや電話を占拠するようになり(ワルダは家賃はおろか、光熱費、電話代も一切支払っておらず...)、自分が食べた後のテーブルの上も汚いままにしたり...最初は気を使ってくれていたのだけど。


そしてそれだけじゃない。ワルダは息子のアフマドをますます蔑ろにするようになった。

せめて、身内のヤスミンがお金を出し、ベビーシッターを雇いなさいと思うのだが、実際それは何度も彼女たちに訴えたのだが、完全に私に甘えていたのだろう。

私とアフマド少年は二人っきりで、毎晩広い邸宅(villa)で過ごすことが、次第に普通になっていった。

もちろん、私とて夜に用事はある。勉強だって大変だったし、友人と夜の街に繰り出したいとかある。でも赤の他人の坊やといえども、ひとりにしておくわけにいかない。


あるとき、しばらく国に帰っていた、当時お付き合いをしていたヨーロッパ君がカイロに戻ってきた。

「今夜は私もデートだから家にいないから、アフマドを置いて行かないでね!」。

事前に口を酸っぱくして彼女たちに言い聞かせた。

が、ヤラレタ。一歩先に二人はそっと出て行ってしまった。

仕方ないので、私はアフマドを連れて、ヨーロッパ君との待ち合わせ場所に向かった。


約一ヶ月ぶりの再会だったヨーロッパ君は、幼い男の子の手を握って現れた私を見て、びっくり仰天。

「四週間会わなかった間に、エジプト人にしかみえない4歳の子供が誕生していたのか!」

.... 


その後、何度文句を言っても、しょっちゅうアフマドの世話を押し付けられた。

しかし、子育てなんぞしたことがないので、どうやって遊ばせて何をどれだけ食べさせたらいいのか、どうあやせばいいのかなど何もわからない。

仕方ないので、日本人会でドラえもん、ちびまる子などのアニメのビデオを借りてきて、アフマドに見せた。

意外と夢中になり、大きな目を真ん丸に見開き食い入るように見て、特にちびまる子の主題歌! 踊るぽんぽこりんが愉快らしく、歌に合わせて踊っていた。

エジプト人は幼い子供でも、みんなリズム感がありダンスの名手なのだが、アフマドの独創的な踊るぽんぽこりんダンスは見事だった!


一緒にエジプトの子供向け番組も見たが、Eテレの幼児番組と違い、さすがエジプト...

子供向け人形劇なのに、戦車やミサイル、兵隊が出てきて

「イスラエルをやっつけろ! イスラエル軍を倒せ!」

という内容だったりで、まあ全然穏やかじゃないことよ..

ちなみに、ディズニーとかセサミストリートとかいう番組は皆無だった。

折り紙やあやとりも教えたし、どこかの店で外国製の上質なクレヨンも買い、一緒にお絵かきもした。ドラえもんを描いてやると、キャッキャ笑って可愛かった。笑


全然食べていない、と言われればクラブサンドイッチ、オムライスやチャーハン、パスタなど作ってやったが、4歳児にこういう晩御飯でいいのかな、と半信半疑だった。

ハンバーグも作ってやろう、と思いたったこともあったが、よくよく考えれば、エジプトでは挽き肉は売っていないのよね...

なにもかも全然わからないので、真剣に日本から雑誌『ひよこクラブ』でも取り寄せようかと考えたほどだった。(※わずか1歳代までの育児雑誌だというのを知らなかったので、子育てイコール『ひよこクラブ』と思い込んでいました。笑)


エジプトの子供というのは、感情表現豊かでいちいち大袈裟だった。

アフマドもそうで、例えば落ち込むと壁にしなれかかり、うなだれて、全身でがっかり感を醸し出す。

甘える時は上目遣いでじいっとこちらの顔を覗き込み、必死にしがみついてくる。嬉しい時は大きな笑顔を見せ、そして踊る。喜怒哀楽の表現が非常にははっきりしており、めりはりがある。

やっぱりそういうのがアフリカンなんだろうな、と感心だ。

でも、かたやアフマドはよく癇癪を起こす子供で、いきなり激しくわめいてじたばたすることもあった。

突然理由もなく大声で泣いたり騒いだり、我が儘を言うことを試験前にやられると、さすがに勘弁してくれといらいらした。

だから、手に負えない時は、ああ早くワルダが帰って来ないかと爪を噛みながらそわそわオロオロしたものだ。

携帯があれば、すぐに母親(ワルダ)に連絡を取るのだが、いかんせん携帯電話のない時代..

片っ端から、彼女らがいそうな店に電話していこうか、と本気で思ったことも何度あったことか。


寝かせつける時は、まんが日本昔話の主題歌を歌ってやったりした。

カイロの古い邸宅で、エジプト人の坊やに「坊や良い子やねんねしな」を聴かせるって、我ながら苦笑いだったが仕方ない。

(※でも一応エジプト音楽ぽく、ヘ音記号を取り入れたアレンジで歌ってみたり工夫はした!)


ところでこの頃、日本でたまごっちが流行っていた。

日本の流行の情報は、エジプトに来る添乗員さん経由で仕入れていたが、

言われる単語がたまごっち、スヴェルト(ディオールの痩身クリームだが、スヴェルトときいた時、「ウルトラマン」の一種かな?と思った。)、

ガングロ(アフリカなんて本家ガングロ!)、チョベバ&チョベグ等など、ああもう頭がパニック、どれもこれも意味不!!! 爆笑


一部の在カイロの日本人たちの間でも、たまごっちが流行った。(まだまだデブイコール美人、の概念だったエジプトでは、スヴェルト痩身クリームは流行らなかった。笑)

私の親しくしていた、数名の日本人子さんたちもせっせとたまごっちの『面倒』をみていた。

「決まった時間にエサを与えたりなかなか大変だけど、面白いよ!ローロー(私)もやればいいのに!」。

いえいえ、人間の子供の世話だけで手一杯ですから!! 苦笑


二人きりの時間が増えれば、当然子供も懐いてくる。こちらもアラビア語の幼児言葉も覚えるし、あうんの呼吸も生まれてくる。そりゃあ可愛くなってくる。

しかしやはり、あまりにも無責任だ。もし二人きりの時に、アフマドが高熱出したらどうしよう、怪我をしたらどうしよう。

エジプト人に嫁いでおられる、年上の日本人子さんたちにも話すと、案の定全員憤慨し、「ちゃんともっと強く言いなさい!」。


彼女らの助言のとおり、考えた私はヤスミンとワルダに強く申し伝えた。

これ以上、私はアフマドの面倒をみない。どうしても子供を置いていくときは、プロのベビーシッターを雇え。頑として私はもう世話を焼かない。

そして家賃はこれまで通りでいいが、いままで半分折半だった光熱費は、ヤスミンの方が多めに払うようにすること。なぜならヤスミンの身内とその息子が何ヶ月も居候しているのだから。

ただし、これから毎晩、私はワルダにワープロの使い方と基礎英語を教える。ワープロと英語を学べは、それなりにいい仕事先を見つけられるはず。

なお、私がそれらを教えるかわりに、ヤスミンは私のアラビア語会話レッスンの相手をすること。これでイーブン、お互いレッスン代は無しにしよう。

最後に私たちのレッスン中、ヤスミンがしっかりアフマドの側についていなさい。


これが私の最大限の譲歩。

知り合って一緒の生活を始めたのも何かのご縁。

アフマドに情も移った。だからこそ、少年のためにも母親が自活できるよう、できる範囲で手を指し述べてあげたい、と思った。


それから一年の歳月が流れた。

気付けば、私はヤスミンよりワルダの方と意気投合するようになっており、二人でよくヤスミンの二股交際の悪口を言い合ったり、一緒に料理を作ったりするようになっていた。


アフマドはなんと! 

私が日本人会からいつも借りてきてやるドラえもんのビデオを見続けたせいで、私の作ったおにぎりを頬張りながら、日本語で主題歌をスラスラ歌えるようになっていた!

♪こんなこといいなできたらいいな

あんなゆめこんなゆめいっぱいあるけど...♪

なんていおうか、さすがエジプト人。耳がいい。外国語をすぐにモノにできる。吸収率の優れた子供とはいえ、大したものだ。

母親のワルダはワープロも覚え、英語も多少話せるようになると、自信もついてきたのかな。顔つきが生き生きした。

そして自ら禁煙し、家の掃除なども進んでやってくれるようになった。

日中は仕事で疲れているので、学生のヤスミンと一緒に夜遊びに出ることも滅多になくなっていた。

また、息子のアフマドにもっと向き合い、可愛がるようになっていた。


結局、この親子は、大家(つまりヤスミンの母親であり、ワルダの身内)に追い出されるまで、私たちのvillaに住み続けた。その時にはすでに彼女は事務の仕事も見つけていたので、生活の基盤は大丈夫だった。


そしてあれから長い月日が流れ...

2011年3月ー

東日本大震災が起きた数日後、あの坊やだったアフマドからメールが届いた。母親のワルダから、私のメルアドを聞いたらしい。

「何か困っていませんか。必要なものがあればエジプトから送るし、日本が大変ならば、エジプトに来てください。母も僕も大歓迎です」。

...!!!

びっくりした。私覚えていたのか!!

ツーッと涙がこぼれた。(余談だが、阪神淡路大震災が起きた時は、私はカイロにいたが、街を歩いていると大勢の見知らぬエジプト人から、道端で

「日本人だろ?日本は大丈夫か?お前の親は無事か?神に祈っている」

と声をかけられた。繰り返すが、通りすがりの人々だ。私はいろいろエジプト人の悪口も書いているが、エジプト人はこういう時、情が深いと感謝しかない。)


また、アフマドのメールによると、なんと成長した彼はカイロ大学の日本語学科の学生になっていた。

スカイプで会話した時、

「まだ覚えているよ」と、

日本語で♪こんなこといいなできたらいいな~♪

彼は笑いながらドラえもんを歌ってみせた。

とても、とっても胸が熱くなった。しみじみ、合縁奇縁ってあるのだなと思った。


追記

そのアフマドは、今はドバイに住んでおり、日本語も使う?某外資系企業で働いているようです。



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↑前回の記事で、エジプトのテレカについて、少し触れましたが、なんと! 今朝、偶然古い本の中なら出てきました!  アブシンベル神殿のテレカ! 分かりにくいですが、度数がアラビア語数字で表記されています。





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