スエズ運河は流れる(最終回) - 革命と追放..エジプト最後のファラオ
「Loloさんはもはやエジプト人だ」
ニコニコはっきりそう言われたのを、今でもよく覚えている。
関西の大学でアラビア語を教えておられる田中 四郎先生が、アラビア語学科の生徒さん数十人連れて、エジプト旅行にやって来られた。
ガイドも務める私の様子を眺め、田中先生は
「うーむ、あなたはエジプト人だ!」と仰った。
あまり褒められている感がせず、微妙な返事しかできなかったが、それは置いておいて、
すでに70を超えられていたように見えた先生は、アラビア語の第一人者でおられた。
素晴らしいお人柄の方なので、エジプトツアー中も、ずっと生徒さんたちにもとても慕われていた。
多分、1995年ぐらいのことだった。大学の大きな団体だったので、観光バスは数台出した。
ちなみに、田中先生はこの学生引率エジプトツアーの話を出版されている。
「ガイドをした私も登場するかな」
とちょっとドキドキしたが、全く登場しなかった。笑
ところで、生徒さんの中に、目が不自由な男子学生さんがおられた。
エジプト考古学博物館に訪れた時、彼が見えていないことに気がついた博物館の館長が特別に、彼だけ素手であらゆる展示物を触らせてくれた。
田中先生はそれに感激され、
「エジプト人の懐の広さに感動した」
のようなニュアンスの記述を、エッセイ本の中でされていた。
田中四郎先生は本当にエジプトをよくご存知の素晴らしい先生だったが、大変恐縮ながら「いや、甘いな」と私は思った!。
なぜなら、エジプト人の掃除のオバチャンが汚い雑巾で、数千年前の彫刻も、ラムセス二世の品物もいつも"素手で"ベタベタ触って拭いているし、
目の不自由な男子学生さんが"感触見学"させてもらった後、
ガイドの私はエジプト人館長に呼ばれて、10ドルのバクシーシを請求されたし! 笑
ところで、当時は美術の専門学校の学生さん御一行様だとか、ベリーダンス同好会の女学生さんチームだとか、いわゆる学生さんのツアーもぼちぼちエジプトに来ていた。これも今じゃ考えられないデスナ。
そうそう田中 四郎先生はお若い頃、エジプト留学をご経験されている。
でもその頃はナセル大統領の社会主義時代だ。おいそれと簡単に私費留学はできない。だから私は尋ねた。
「どうやってエジプト留学が実現したのですか」。
「いやね、実は"エジプト・アラブ共和国 ナセル大統領様"だけの宛名でエアーメールを送ったのですよ。エジプト留学させろよって書いたんですな。
すると本当にその手紙がエジプトに届き、ナセル大統領の手に渡ったのです。
そしてナセル大統領の招待がうちに届き、それでエジプトに留学が出来たんですよ」。
このエピソードにはとても驚いたので、そのようにお話して下さったことはよく覚えている。さすが伝説のナセル大統領だ。
やっと、本当にやっとエジプト人のアブデル・ガマル・ナセルが登場するまで、この国では外国人の支配がずっと続いていた。
↑幼少期のファルーク。(ダミアンではありません)
1920年、ムハンマド・アリー王朝からエジプトの10番目の統治者、ファルークが生まれた。オスマン帝国が崩壊した頃のことだった。
彼はチェルケス人、トルコ人、フランス人、そしてアルバニア人の血を引いていた。
エジプト人の血は一滴も入っていないが、エジプトとスーダンとヌビアの、事実上最後の国王(ファラオ)だった。
ファルークの幼少期は、全く普通ではないものだった。
父親のファード一世の方針で、毎日母親には一日1時間のみしか謁見できず、ほとんど全く外にも出してもらえなかった。
その上、ファード一世は食べ物に厳格で、太らせないようにとファルークに徹底して最低限の食事しか食べさせなかった。
だから彼はいつも飢えており、ついには宮殿の飼い猫のキャットフードまで盗み食いをするほどだった。
一方、大勢の女性の乳母たち(大半はイタリア人)に囲まれ、大変ちやほや甘やかされた。
緑の公園を散歩するだとか、同じ年頃の少年たちと遊ぶなど一切していない。唯一の同じ子供の遊び相手は、姉妹たちだった。
ところで姉妹たちの名前も全員"F"で始まり、ファルークは自分の子供たちにもFが頭文字の名前をつけている。
その理由は、父親ファード一世が以前インドに訪れた時、そこのインド人の占い師に「Fの名前は一族に繁栄をもたらす」と預言されたからだった。実際は"fall down"してしまっただけなのだけど!
ちなみに、彼の妹のファウズィーア・ファウド王女は、イラン・モハンマド・レザ・パフラヴィのシャーに嫁ぎ、イランで王妃になっている。すぐに離婚しエジプトに戻ったが..
↑ファウズィーア・ファウド王女。ビビアン・リーに似たハート型の顔の美女でした。
ファルークは14才の時、イギリスのウーリッジにある王立陸軍士官学校に入学する。そこの学校では存在が薄く、とても大人しい地味な少年だった。
かたや、学校を離れると自己中心的な性格が炸裂した。取り巻きをぞろぞろ引き連れ無意味な"爆買い"ばかりをしていた。(余談ですが、私がイギリスの語学学校に留学した時、クラスメートのタイの王子もそんな感じでした)
ファルーク少年は『王冠をかけた恋』で知られるエドワード8世には心を開き、懐いた。まさかこの時はお互いにいずれ王座の地位を失うことになるとは、思っていなかっただろう。
イギリスでの留学生活は2年と続かなかった。なぜなら父親ファード一世が崩御したからだ。
ファルークは16才の若さで国王になった。(←勢力を失ったオスマン帝国の属州から離れていたので、もはや総督でも副王でもなく"国王")
戴冠式では、彼は国民に向かって公共ラジオの演説をした。
エジプトの君主が民に直接話しかけたのは、これが初めてのことだった。
なお、ファルークの一番得意な言語はイタリア語だったが、君主がアラビア語を話せるのも初めてのことだった。前王ファード一世などはアラビア語を全く話せなかった。
ラジオ演説の内容はこのようなものだった:
「まだ幼い私が王権の責任を背負うことが神の意志であるならば、私は自分の義務に感謝し、義務のためにすべての犠牲を払う準備ができています...
私の高貴な人々、私はあなたとあなたの忠誠を誇りに思っており、将来も私が神の中にいることを断言します。
一緒に働きましょう。私たちは成功し、幸せになります。祖国を長生きさせよう!」。
このアラビア語による語りかけに、エジプトの国民は熱狂した。
↑よく見えませんが、イギリスから戻りエジプト人らに熱狂的な歓迎を受ける16才のファルーク。(馬車の中から右手を上げています)
初期のファルークは非常に人気があった。
やはり初めてのアラビア語を喋る君主であることと、すらりと背が高く見た目がとてもハンサムで華があったからだ。新しい風を呼ぶ、若きニューリーダーにみえた。
ところが、エジプトの国民はすぐにファルーク国王に失望する。まず浪費ぶりがあまりにも酷いのだ。
ファルークは華やかな王室のライフスタイルに夢中になり過ぎた。彼をたしなめる者はいなかった。
そして、幼少期の極端に厳しかった食べ物制限の反動が出た。
例えば、朝食にはシャーベットとフルーツ、ロブスター、焼きチキン、チキンフリカシー、ラムリブ、シータン、マッシュポテト、ライス、ビーンズ、アーティチョークは当たり前だった。
ファルークの趣味は"収集"だった。赤い車コレクション、世界のコインのコレクション、そして女性のヌード写真のコレクション、また宝石コレクションにも夢中だった。
何でも手に入った。国庫のお金を民や国に使うことは全く、そのお金を女性、ギャンブル、グルメ、趣味の収集のみに浪費した。
彼は数千エーカーの土地、数十の宮殿、数百台の車を所有し、何か欲しいものあるとすぐにヨーロッパに渡り、莫大な金額の買い物(主に車と宝石)をした。
議会には出席していたが、彼が書類に目を通し紙に何かメモをする姿を見たことのある大臣・議員は皆無だった。議会中、ファルークが唯一手にとるのは、ジュースの入ったグラスだけだった。
ちなみにもちろん結婚はしたが、一人目の妻のファリダ(←本名は全然違ったが、やは"F"で始まる名前に改名させられた)とは、娘二人が生まれた後、離婚する。
息子ができなかったから別れたのだ、と言われているがおそらく嫁姑問題だったと思う。相当、クセの強い姑だった上、実際嫁姑は最初から不仲だった。
二人目の妻ナリマン(←改名せず)とはヨーロッパ周遊の新婚旅行へ出かけたが、ファルークは食べまくってばかりだったので、このハネムーン中にまた体重が一気に増えた。
ある日の夕食などは、クリームソースのステーキ、クリームソースのマッシュルーム、クリームソースのシーフード、ホイップクリームとチョコレートのストロベリーピューレケーキ等々。
ファルークの過食症と女性遊びはどうしようもなかった。だから夫婦生活も全然うまくいかなかった。ただし二人の間に息子、ファード二世は授かる。
興味深いのは飲酒することだけは、一切なかったことだ。そこだけはモスリムとして、譲れないこだわりだった。
↓ファルーク国王(左)、息子のファード二世(右)
さて、ファルークの1936年から1952年までの治世中に、第二次世界大戦とイスラエル国家の創設という大きな政治的混乱が起きた。
しかし第二次世界大戦中、カイロ市内中は停電だったというのにファルークの滞在するアレキサンドリアの宮殿の全室全廊下の電気は、一晩中付けっぱなしだったとか、
戦時下にも関わらず、ファルークは放蕩生活を送りギャンブル、女遊び、グルメ料理食べ歩きをやめなかった。
国王としてあまりにも低俗だ。酷い。だからアメリカのCIAは陰でこっそり、ファルークのことをFat fuckerと呼んで笑っていたほどだった。
第二次大戦-
ヒットラーはスエズ運河を狙う。先に同盟国のイタリアのムッソリーニがスエズ運河攻略をしようとしていたが、ヒットラーは「イタリアの戦力じゃあ無理だ」と分かっていた。さすがだ..
イギリス側についていたエジプトは、ナチス軍の激しい攻撃にさらされた。
しかしはエジプト人の多くは内心、ドイツ側の味方につきたいと思っていた。イギリスの傲慢な支配下から逃れるいい機会だったからだ。
しかしそれに気づいたイギリスは、ファルーク国王に"反ドイツ"宣言を強要させた。
これがいかに、どれだけ一国の君主として屈辱だったかのちにファルークは語るのだが、国民の目から見ても彼は完全にイギリスの言いなりだった。
1948年、第一次中東戦争が起きるがエジプトはイスラエルに大敗する。
エジプト人はみんな「えっ!?」と耳を疑った。建国したてのほやほやのユダヤ人らに負けた!? ありえなくないか.
エジプト人の怒りは全てファルークに向かった。
1918年にアレキサンドリアで生まれたガマール・アブドゥル=ナーセル。
先祖のルーツはアラブ人であり、彼はアラブ民族主義を抱える軍人だった。
彼はずっとイギリス支配に不満を抱き、国王にも怒りを覚えていた。そして反英かつ愛国主義者の将校の仲間らと、政治秘密結社『自由将校団』を設立する。
この自由将校団は、これまでのエジプト独立運動で主流だったガンジー式の「消極的抵抗」はもうだめだ、「積極行動」起こしていかねばならない、というスタンスだった。
その結果、エジプトの王制を廃止しイギリスも追い出した。
これが良くも悪くも、のちにいくつものテロ組織を生む理由の一つになってしまった。(←つまり攻撃的にやれば、政府転覆も可能なんだという解釈)
1952年
この年、イギリスによるエジプトの占領 が70周年を迎えようとしていた。これに反発を覚えた、反イギリスのエジプト人将校と兵士たちは、ハンガーストライキでスエズ運河の地帯に居座っていた。
イギリス側は、彼らに武器を放棄しろと命じた。しかしエジプト人たちは言うことを聞かなかった。
そこで1月25日の朝、英国の司令官ケネス・エッカム准将はイスマイリアのエジプト警察に警告を発し、その後2時間に及ぶ銃撃戦に発展した。
結果、50人のエジプト人が殺され、80人が負傷した。残りは捕虜にされた。
このことはすぐに国内中にニュースで広まった。
エジプト人たちは怒り狂った。だから翌日の1月26日、カイロの中心街、タハリール広場を中心に暴動が起きた。
この暴動はのちに『カイロの火』(حريقالقاهرة)または『ブラックサタデー』と呼ばれる。
イスマイール副王がスエズ運河開通式(1869年)の際に建てたオペラハウスは放火され、
タハリール広場のそばにある、のちに映画『イングリッシュペーシェント』(1996年製作)の舞台にもなったシェファードホテルも放火された。
↑1940年代のシェファードホテル。イギリスのサイトではここの写真が"Golden age"で紹介されていました。
シェファードホテルの歴史は、1841年に英国人によって最初に設立され、そしてナポレオンの軍隊によって占領され、第一次世界大戦中、ホテルは中東のイギリス軍のイギリス本部として機能していた。
オペラハウスとこのシェファードホテルは、エジプト人の憎悪の対象でしかなく、徹底的に狙われた。
さらにエジプトで最も有名なデパート、オマル・エッフェンディーも含め、300近くの店舗が破壊され、
また30の企業オフィス、13のホテル(メトロポリタンホテル、ビクトリアホテルを含む)、
40の映画館、10の銃店、73のカフェ、レストラン(有名なGroppiを含む)そして92のバーと16のクラブも破壊された。
人的損失については、26人が死亡し、552人が火傷や骨折などの負傷を負った。
この暴動が起こっていたとき、ファルーク国王はカイロ市内のアブディーン宮殿で、息子のフアード二世の誕生日会を開いていた。そこには約2,000人の将校が招待をされていた。
『カイロの火』(ブラックサタデー)がきっかけで、エジプト国内のデモは広がっていく。
国の安定を回復するために、軍はついに1952年7月23日の早朝にファルーク国王に対して無血の軍事クーデターを実行した。
指導者は、ガマール・アブデル・ナセル大佐とムハンマド・ナギブ将軍(エジプト共和国一代目大統領)の2人の自由将校だった。
結局、ファルークは7月26日に退位しイタリアのカプリ島へ島流しされた。(そののちローマへ)
アレキサンドリアの港を出航する際、ファルークはレモネードやチョコレートの箱などぎっしり、船に積ませた。
監視の兵士たちは、それを見て馬鹿にし笑った。
「本当に食いしん坊の国王だぜ!」
だから、それらの箱を調べなかった。実は全ての箱の中身は金の棒と宝石だった。
カプリ島に到着すると、ファルークが真っ先にしたことはチョコレートアイスクリームとケーキを食べることだった。
ローマの別荘に移ると、カジノと売春宿通いに精を出した。妻ナリマンは愛想を尽かし、離婚を申し出た。
↑エジプト追放で、軍に見送られるファルーク国王。なお亡命先のイタリアで、二番目の妻とは離婚
さて、エジプト共和国は1953年7月18日に宣言され、スーダンは1953/54年にエジプトからようやく分離され、念願の独立を果たした。
最後のイギリス兵が独立したエジプトの領土を去ったのは、1956年6月13日だった。
その日、エジプト人はポートサイドにある、イギリス軍が撤退した建物の上で、新しいエジプト共和国の国旗を掲げた。
1800年代後半から続いた、約70年続いたイギリスの占領はついに終わった。
そして、そしてそしてもっと言えば、ペルシャのダリウス王、マケドニアのアレキサンダー大王、ローマ、東ビザンチン帝国、アラブ、オスマン帝国、フランス、イギリス
と気が遠くなるほどずうっと続いた、約2000年近い、外国人によるエジプトの支配はここでやっと終焉を迎えたのだ。
↑1956年、ポートサイードの街。エジプト支配の最後のイギリス兵士が撤収しました。
ちなみに自由将校団のバックには、エジプトの共産化を狙ったソ連の武器提供があった、いやいやむしろとアメリカのCIAがスポンサーだったなどの説がいくつかある。
ファルーク国王は、裏で糸を引いていたのはソ連だと信じていたが、実はCIAだったというのが今では強い説だ。
あのままだと、Fat fuckerのファルーク国王はソ連に言いようにされるか、もしくは反王制主義者らをソ連が丸め込むのが目に見えていた。
ならばCIAは先に自分たちで、ファルークを倒しちまえ、と考えたのだという。
そうそう、スエズ運河...
アメリカとイギリスが、以前に約束したアスワンハイダム建設資金を、やっぱり取りやめると言い出し、
だったらやむを得ない、とナセルはハイダム建設の資金調達のために、スエズ運河会社を一方的に国有化した。
あの、フランス人レセップス(ナポレオン三世のユジェニー皇后の従兄弟)が設立した、スエズ運河株式会社だ。
ナセルがスエズ運河の国有化に思い切って踏み切った大きな理由の一つは、スエズ運河株式会社設立時の契約書中身にあった。
細かい条件諸々があったものの、そこにははっきりと書かれてあったのだ;
"スエズ運河はエジプトのものだ"。
スエズ運河はエジプトのものだ..この文言がナセルの背中を押した。
しかし、ナセルのスエズ運河国有化宣言をきっかけに、エジプトはイギリス、フランス、イスラエルと戦争(第三次中東戦争)に突入していく。(1956-1957年)
その結果、当初はソ連に距離を置いていた(と言われる)、エジプト共和国二代目大統領のナセルは、ソ連寄りの政策へ傾く。
1965年3月18日
ローマのレストラン「イルダフランス」で、エジプトの元ファラオ(国王)ファルークは人々の目も憚らず、大食いにいそしんでいた。
7羽の鶏肉、ホットソースのカキ、数個のベイクドポテト、6個のエクレア 、ザッハトルテのケーキワンホール、そしてカプチーノ数杯と2本のワイン...(エジプト追放後は飲酒していた)
しかもなんと、これはこの日の初めての夕食ではない。なんと、すでにほかで夕食を済ましており、"二回目"の夕食だった!
レストラン「イルダフランス」で満足した後、彼は葉巻に火をつけた。その瞬間、心臓発作が起き倒れた。45歳だった。
毒殺も疑われたが、検死の結果何も体内から毒は出てこなかった。
ファルークの遺体は地中海を渡り、カイロのアルリファイモスクに埋葬された。
そして前述済みだが、彼の未成年の息子フアード2世は1年間だけ国王になっているが、その後廃位させられスイスへ送られる。
↑ローマでのファルーク元国王葬儀
↑ファルーク元国王の墓
ナセルの次にエジプト共和国の大統領になったのは、サダトだった。
彼は様々な状況から自由経済でなければならないと考え、また四回に渡る、イスラエルとの戦争でエジプトの財政は逼迫していた。
アメリカからの援助が必要だった。しかしアメリカが出した条件が、イスラエルと和平を結ぶことだった。だからサダトはイスラエルと握手を交わした。
このイスラエルと和平を結んだことが理由で、1981年10月6日、サダトはイスラム復興主義過激派のジハード団に暗殺される。
↑ファルーク国王の去った宮殿にて。サダト(左)とムバラク(右)
ジハード団とは、モスリム同胞団の穏健的な路線に不満を抱き、1980年代に新たにエジプトで生まれた集団だった。
彼らはエジプト国内のコプト教徒に対する激しい憎悪・虐殺でも知られており、閣僚級のエジプト要人や、アメリカの役人に対するテロ活動も行っている。
イスラーム法(シャリーア)に背く者たちは同じモスリムであろうがなかろうが、排除すべきだという考えを持っている。
ただし、一般民衆を巻き添えにするテロのやり方であったために、エジプト国民からも決して良くは思われてはいない。
エジプトはようやく自国を取り戻した。
が、外国に抑圧されていた間に、愛国心と行きすぎた強い信仰による多くのテロ組織も誕生していた。
中には反王制、反イギリス活動からもグループが枝分かれし、いくつものテロ組織も生み出してしまってもいた。(←かなり短縮化して述べています)
そしてこの次、話は以下の記事の続き、1997年9月18日のタハリール広場に戻る↓:
↑エジプトに来て、ピラミッドよりも先に訪れたスエズ運河。一番来たかった所です。運河の向こうに肉眼で見えたヨルダンとサウジアラビアには感動しました。
↑参照
うれしい😆↓
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