とりあえずエジプトはここまで、続きはいずれまたインシャアラー...
YouTubeで全編見れるようです、ただしアラビア語音声のみ😅
2008年、スーザン・タミム事件が起きた。
レバノン出身の歌姫、スーザン・タミムがドバイのマリーナのアパートの部屋で何者かに殺されたのだ。
当初はエジプトのメディアも女性スター歌手、スーザン・タミムの殺人事件をセンセーショナルなスキャンダルとして、興奮気味にノリノリイケイケで報道していた。
犯人は彼女の夫や恋人ではないか?と好き勝手書きまくった。
ところが逮捕された容疑者の男が、そのわずか数日後に独房で謎の死を遂げたと同時に、
事件の関与者としてエジプト政財界の大物の名前やムバラク大統領子息の人脈の名前が上がってきた。
すると突然、大統領政令により、エジプトでの報道規制がかかった。
スーザン・タミム殺人事件が忘れられそうになった頃、この事件をモデルにした映画が2011年に製作された。
『The Nile Hilton Incident (ナイルヒルトンホテル事件)』だ。
監督はエジプト人の父親とスウェーデン人の母親を持つタリク・サレ。
2017年には、サンダンス映画祭のワールドシネマドラマティックコンペティション部門で上映された、World Cinema Grand Jury 賞を受賞したが、エジプトでは決して公開の許可は下りなかった。
なぜなら、この映画は現代のエジプトの現実的な側面を上手に描写し過ぎていた。
特に、スーダン人移民らの労働者階級問題にも切り込んでいることと、エジプトの警察の腐敗をもろに正面から描き切った点だ。
これらは言葉を変えれば、あまりにも国家の恥だ。だからエジプトでは検閲を通過できなかった。
よってエジプト国内での撮影も許可が下りておらず、ほとんどのシーンはカサブランカで撮影された。(ただし、カイロの街でのゲリラ撮影されたシーンもあり)
ストーリーは2010年冬から2011年の春にかけて...ちょうど二回目のエジプト革命(アラブの春)の起きた時期だ。
妻子を事故で失い人生に絶望していた主役のノレディンの職業は、警察司令官だった。
身内(叔父)のコネで警察署に勤務しているだけに過ぎず、不法の賭博酒場を経営するディーラーなどからのみかじめ料で小遣いを稼ぎ、職務上におき汚職や賄賂、隠蔽など彼にとって日常茶飯事だった。
ある時、ナイルヒルトンホテルで殺人事件が発生した。
被害者が有名な女性歌手というのはすぐに分かった。
しかも喉をかき切られ死んでいるのに、自殺として処理するよう言われる。
『ナイルヒルトンホテル事件』の映画では、このくだりを実際に起きたスーザン・タミム事件をモデルにしている。
ノレディンはいろいろな経緯があり、初めて本気でこの事件を調べようと動き出す。
それには、と加害者の唯一の目撃者であるスーダン人のメイドに事情聴取をしようと再度ホテルに出向くが、そのメイドはすでに解雇されていた。
最終的に、警察署のお偉いさんである、ノレディンの叔父も事件に関与していたことが分かる。
しかし時はエジプト革命の真っ最中。自分の手で捕まえようとするが、革命の混乱で叔父には逃げられる。
メイドだったスーダン人女性には会えたが、あまりにも大物らが関わる殺人事件だったため、証言をさせたくない勢力から圧力がかかり、彼女は命を狙われる。
結局、一警官の力では十分に彼女を守れない。だから
「やっぱり証言するな。こんな危険な国に留まるな」
と、事件の重要人物に関する目撃の証言をさせるのを止し、彼女をエジプトからスーダンに去らせた。
映画の最後はタハリール広場周辺での群集の暴動と、街中の大きなムバラク大統領の肖像画がはがされていくところまでで、
革命の後、本当にエジプトという国は変わるのかどうなのか、果して...という余韻を残して暗いエンディングロールへ入っていく..
↑カサブランカロケでしょう、車ナンバー全部覆い隠している..
↑カイロのスーダン人移民への差別問題を扱った初めての映画だったかもしれません
私が送ったヨウコさんの手紙は、日本大使館の方でちゃんとプロに翻訳してくださったと、後で聞いた。当時の日本大使館も頑張ってくれたらしい。
しかし結局アムルは釈放された。とても早かった。エジプトの世論が完全にアムルに同情していたのも、その理由のひとつ。
それは何故か。
アムルの母親は号泣してインタビューに答え
「あの日本人女はエジプトで楽するために、息子を利用していた。エジプトで暮らすために面倒なことを全て押し付け、
(↑家事も料理も全てヨウコさんひとりで賄い、外国移住申請手続きも全てヨウコさんが行っていた。同時に彼女はアムルのハシーシ中毒をどうにかしようとしていた)
自分だけひとりで外国や国内旅行しまくり
(↑夫婦でアメリカやオーストラリア移住をするため、食品買い付けや観光ガイドをし一生懸命"夫婦"のためにお金を貯めていた)
観光業の自分の仕事がなくなると、息子に出稼ぎに行かせ、自分は息子の購入したカイロのアパートに他の男を連れ込んでいた。
(↑出稼ぎに行く際、どれだけヨウコさんが世話を焼いたことか)
息子がやっとエジプトに戻ってくると、『金を貯めていない』とあの女はなじった。ああ息子が可哀相だ可哀相だ」
と、ここで号泣。
ヨウコさんは言葉も通じないことが多くきつかっただろうに、あれだけこの姑にはこまめに電話を入れよく訪問もして、傍で見ていてもとても頑張っていた。
いくら息子が可愛い、早く刑務所から出したいあまりだから、といっても婆の涙の訴えは胸くそが悪くムカムカした。
第一、エジプトのマスコミもマスコミで、(アムルの予算に合わせて選んだぼろアパートのある)あんな貧民街にひとり残され住んでいた外国人女性の大変さや気持ちを想像してみるだとか、
やたらと「愛人の男がいた」と騒ぐわりには、その"愛人"が全く何処にも登場しないことに追求するだとか、
ハシーシと強いアルコールで、アムルが部屋のベランダから「ファッ○ングエジプト!!」とか意味不明の言葉を喚き散らかすなどしょっちゅうあったことだとか、
悪そうな不良仲間と群れてぷらぷらばかりしていたといった、近所の人の証言を取ること等はてんでんなかった。
ま、エジプト人は同じエジプト人を庇うので、近所の隣人らはどうせ何も話さないだろうが...
そう、外国人とエジプト人の間に何かトラブルが生じると、はなから
「悪いのは外国人で被害者はエジプト人」
と決め込む傾向が彼らにはあり、その上今回は男女の問題だ。基本的にこの手の事件では、たいてい「少なくとも女に非がある」になる。
これを憤慨する日本人たちもいたが、火の粉が自分にかかっても大変なので公に反論もできない。
あと、多分だがアムルの親に警察のお偉いさんや裁判官の身内でもいたか、またそういう人物を買収したんじゃないかと思う。
ではそのお金はどこから? なのだが、
ヨウコさんは箪笥貯金をしていた。エジプトの銀行を信用しておらず、現金(米ドル)全て自宅に置いていた。
大変皮肉だが、私の推測だけれどもアムルの親は彼女のお金で、彼女を殺した犯人を釈放させたんじゃないだろうか。
ヨウコさん殺害事件は、日本の新聞にも載った。
その切り抜きを、エジプト時代の共通の友人が日本からチェコにいる私に郵送してくれた。
小さな小さな記事だった。たった2行程度だった。
『今年○月○日カイロの○○地区で○○○ヨウコさん(年齢)が、同居のエジプト人男性に刃物で殺害された。』
リュックサックを背負い世界を旅し、死ぬまでに世界中を見たいと語っていた、まだ30にもならなかったヨウコさんの死去は、このようなわずか二行で報道されただけだった。
1999年...
「わぁ...何もない...」
私はヨウコさんの墓参りにやってきた。いやぁ、そこまで行くのに難しかったことといったら!
交通網が全然発達してない山と畑と年寄りしかいないような集落だった。日本といえば都会しか知らなかった私にはある意味、衝撃的だった。
でも実際に訪れてみて、なぜ彼女は生前あまり日本に里帰りをしなかったのが、なぜ日本住みたくなかったのか初めてちょっと分かる気がした。
まさに自然しかなく自然が美しい土地の良さを理解するには、ヨウコさんはまだ若すぎた。
ご実家は木造の古い日本家屋だった。映画の世界でしか見たことがないような、古い家だった。
ご両親は穏やかに私を中に上げてくださった。
両方の耳に無数のピアス穴を開け、ゴールドをジャラジャラ身につけ、アメリカンナイズされたファッション姿のヨウコさんと、
目の前におられる小さな質素な感じのご両親。まるで結びつかない。
ちなみにお二人にはお子さんは他にはいない。ヨウコさんはひとり娘だった。
事件後、ご両親はカイロ日本大使館から連絡を受けても、直ちにはエジプトへ飛べなかった。パスポートを所有していなかったのだ。
ただし事情が事情なので、緊急発給してもらえご両親は生まれて初めての飛行機に急遽乗った。
「あんな国、一秒でも長くいたくなかったのでさっさと娘の遺骨と共に日本にとんぼ返りをした」
お父さんは顔をしかめ、涙をこらえて、そう仰った。
そしていろいろ聞くと、ヨウコさんが身につけていたゴールド数々も受け取っていない。
絶対外れないゴールドのアンクレット、いくつものゴールドのブレスレット、指輪、ネックレス、ピアス...
これらのゴールドも、家に置いていた他の高価なアクセサリーも、服もお金も何もご両親に渡されなかったという。
遺骨を引きとりに行った時は気が動転するあまり、娘の所持品やお金のことなどに一切頭が回らなかったそうで、後になり時間が経ってからもやもやし出したそうだ。
「どうしたらいいだろう?」
そう聞かれて、
「向こうの日本大使館を通し、再調査を依頼できるとは思いますが率直に言いますが無駄だと思います。そういう国なんです」
と私は答えた。
「...」
ご両親はいろいろな意味で悔しそうだった。
そして私を車に乗せ、ヨウコさんのお墓に連れて行ってくださった。
これまた衝撃的だった。
それまで私は"引き出し"のお墓を見たこともなかったので、こういう形態のお墓があることに驚き(←悪い意味ではなく、純粋に当時はただ驚きました)、
また世界を回っていた彼女がこんな狭い所に入れられたのも、胸にぐっときた。
本当ならヨウコさんなら自分の遺灰を外国のどこかの海に撒いて欲しいだろうにな、と思った。とてもご両親にはそんなこといえなかったけれど。
ちなみに手を合わせに来たのは、身内以外には私だけだ、とお二人は仰った。エジプトの他の日本人友達は誰も来ていないそうだ。
2000年
ザマレック地区にあるマリオットホテルのロビーにいた。カイロでは誰かと待ち合わせするのなら、ホテルのロビーが一番安全だった。
街角で待ち合わせするようなものなら、"立ちんぼ"に勘違いされ偉い目に遭うだけだ。
エジプト人ポーター二人がじいっと私を見ていた。
ひとりが言った。
「ヘイヤヘルワヘルワアウイ、ヘイヤラジィーザ!」 彼女(=私)はキレイだぞ!
するともうひとりが顔をしかめた。
「ラッ、ヘイヤムシュヘルワ、ムシュクワエス」 いやいや美人じゃないね、と馬鹿にするように鼻で笑った!
そして二人であれこれ私の外見の批評を細かく始めた。さすがに聞き逃せない。
「エッヘン、あの、全部聞こえているんだけど」
「..!」
二人は驚き、そして
「You understand Arabic! Very good! Welcome to Egypt!」
と目を輝かし喜んだ。
いやいや、普通は人の容姿をあれこれ言ったことを、先に謝らないか...
ところでそれにしても、さきほどから周囲がやたらうるさい。
携帯電話だ。
世の中に携帯電話が登場すると、エジプト人も湾岸人もみんな夢中になった。
ノキアのメーカーしかなかったが、着信音がどれもこれも怪しいメロディーのアラブ音楽で (チェコではクラシック音楽の着信音しかなかった)、
やたら彼らは携帯電話を使いたがった。
そして携帯電話を持っている自慢もしたいので、カフェやホテルロビーなどではわざとテーブルの真ん中に置いて、
そして周囲に携帯自慢をするため、あえて大声を出し大した用事もないのに方々に電話しまくっていた。
だからこのマリオットのロビーでも、どこもかしこも携帯の着信音(変なメロディーばかり)と携帯の大声の会話ばかりが絶えず響き渡り、ああうるさいうるさい。
(ついでをいえば、もう少しこの後になると日本製のノートパソコン自慢も大きかった。やたらとエジ男たちは日本のノートパソコンを小脇に抱え"スーパー"にも来ていた)
しばらくするとカナエさんが遅れてやってきた。
周囲が携帯の通話でやかましいので、二人で落ち着いて会話をするのが大変だった。
しかも彼女は夫に殴られ過ぎて、片方の耳の聴覚はほとんど失ってもいた。
ヨウコさん殺害事件の詳細を詳しく聞いた。
結局、カイロの日本人達の多くはヨウコさんに非があったと彼女に同情をしなかった。
何故なら正式な結婚をせずエジプト人男性と夫婦のように暮らしていた、夫の不在中他の男性を部屋に上げていた、だからだ、と。
口惜しいのだが、ヨウコさんと個人的な付き合いのあった日本人はごくわずかだったので、華やかな見た目と違い彼女は決してそんな女性ではないということを、多くは知らなかった。
「そうですか...ひょっとしてアムルに重い刑罰が課せらなかったことで、日本人会が立ち上がり、
カイロ在住の日本人の皆さんで怒りの表明でもされたのかなと期待していたのですが、
むしろ彼女は同じ日本人達からも悪口を言われ、糾弾を受けたのですね」
「ヨウコさんは日本人会にも入っていなかったし、そもそも日本人会に足を運んだことも一回もなかったし..今思えば宗教婚をしていたから、何か引け目でもあったのかしらね」
前回、私は「宗教婚だったことを、ヨウコさん本人も知らなかったかも知れない」と書いた。でもやっぱり分かっていたのだろう。
何故なら、後で思えばアムルを「夫」「主人」と呼ぶことは一度もなく、常に「彼」だった。私への手紙も、いつも日本の苗字しか書かれていなかった。
何故、正式な法律婚をしていなかったのか-
おそらくアメリカにグリーンカード抽選をいつも申し込んでいたので、(貧しい国のモスリムの)エジプト人の伴侶がいない方が当たりやすく、
自分がまず当選してそしてアムルと正式に夫婦になり、一緒に渡米しようと考えていたのだと思う。
グリーンカードに当選しやすい攻略法をものすごく研究しており、何かと「○○国籍が当たりやすい」だのよくあれこれ言っていた。
アパートにはその手の本がいろいろ置いてあった。よって二人の外国(アメリカ)移住計画のためだったと思う。
事件後、エジプトでさんざん騒がれた、彼女がふしだらでルーズで自分本意の女性だったからではない。
「...で、アムルは今どうしているのですか?」
「ああ再婚したわよ」
「えっ!?」
「相手の女性のことは全然知らないけど、再婚相手も日本人女性という噂はあるわよ」
「...」
いきなり脳みそをハンマーで殴られたような気持ちになった。
「私は分かっているから。ヨウコさんは何も悪くなかったって分かっているから」
カナエさんはそう言ってリプトンのTバッグの紅茶を飲んで、呟いた。
「そして明日は我が身..」
ところで
「三年なんだ、エジプトでは三年おきにテロか戦争が必ず起きて、エジプトのツーリズムは駄目になる。ひたすらこの繰り返しだ!」
エジプト航空のスカウト氏はそう言っていた。
ルクソールテロ事件が起きたのは1997年11月だった。
しばらくは日本からも全ての観光ツアーに規制がかかったが、1999年にはまた沢山の日本人ツアーがエジプトに戻って来た。
新婚旅行ツアーも次々に日本から飛んで来た。また日本人ツアー大ブームが復活した。
私はまだチェコにいたので、、外からエジプトの日本人ツアー再ブームを眺めていた。
カナエさんの手紙を読んでいると、エジプト航空のルーズなフライト状況も以前のままだし、
ちょくちょくテロが起きてコプト教徒(エジプトのクリスチャン)が殺され、たまに外国人個人観光客も殺されているという。
「でも大きなルクソールテロ事件からもう三年経った。四年がすぎるまでに、そろそろまたドカンと何かが起きるのだろうか」
そう思っていたら、本当に大きなテロが起きた。
しかも思っていたよりずっとスケールの大きいものだった。それは2001年9月の米国同時多発テロ事件だ。
この事件の主犯格の1人とされるモハメド・アタら複数のメンバーはエジプト人だった。彼らは「アルカイダ」に参加していたことが明らかになった。
これまでは、エジプト人テロメンバーらはアメリカに擦り寄るエジプト政府に嫌気がさし、エジプト国内でテロを起こしていたが、なんとアメリカ本国でテロを起こしたのだ。
この後、第二次湾岸戦争勃発、そしてその後にSARSの流行が来てエジプトの観光業はまた駄目になった。
そんな時、カナエさんからエジプトを離れていた私に手紙が届いた。
「Loloさん、エジプトには仕事がもう何もありません。何か私に仕事をくれませんか。助けてくれませんか、Loloさんしか頼れる人がいなくて...」
私の身内にテレビ局員が多かったので、おそらく撮影コーディネートの仕事を回してくれないか、という意味だったのだろう。
でも私ごときの人間では何も出来やしない。結局、カナエさんは夫を置いて子供たちとだけで日本に引き揚げた。
電話で話したが、とにもかくにも精神的にも疲れ切っていた..でも約20年近く、エジプトでよくぞ頑張られたと思う。しかもあの暴力&お金を家に入れない浪費家夫を抱えて..
ついでをいえば記事にはしていないが、イスラム教に心酔していたある日本人妻さんも、諸々に失望して子供と共に帰国。
別にイスラム教自体にどうのこうのではなく、日本の素晴らしいモスリムと違うエジプトのモスリムに深くがっかりした、と。
第二夫人だとか宗教婚をしていた、私の知る日本人妻の皆さんもたいていもう居なくなっていた。
むろん素晴らしいエジプト人日本人ご夫婦も何組もいたが、完全アウトといおうか、ありえない夫婦の話もなんだか多い街だったな、とは思う。
エジプト国内でもテロが止むことはなかった。
2004年にはシナイ半島のタバ及びヌエバ連続爆弾テロ(イスラエル人観光客ら33人死亡)、
その翌年には同じシナイ半島のシャルム・エル・シェイクでの自爆テロ(外国人観光客ら64人死亡)等が発生した。
2011年2月、ムバラク大統領はチュニジアの「ジャスミン革命」に触発された反政府デモによって辞任に追い込まれた。
デモの人々は叫んでいた。
「ムバラク大統領は独裁者、独裁者は辞任せよ!」
「...」
私はあっけに取られた。一体いつからムバラク大統領が独裁者になったのか?
もちろん、もともと国民からの人望はなく、ムバラク政権下は政府、軍、警察の汚職腐敗があまりにもめちゃめちゃだったが
同時にムバラクは多くの面でも支持されていた。
国の治安を脅えさせるテロリストたちを厳しく取り締まり、暗殺されたサダト前大統領のアメリカ寄り政策の路線を受け継ぎながらも、アラブ諸国との良好な関係も築いていた。
湾岸戦争ではどちらにつくか、非常に難しい選択だったが多国籍軍側につき、多くのエジプト人はそのムバラク大統領の判断を高く評価していた。
私の知るエジプト人たちは誰もが
「ベストな大統領じゃないが、リビアのカダフィに比べたらずっとまともないい大統領だ」
と言っていた。密告を恐れ本音を吐かなかっただけかもしれないが、それにしても
「独裁者だ、独裁者だ。引きずり下ろせ!」
には違和感しかない。
1952年のエジプト革命でファルク国王が引きずり降ろされた時には、バックにCIAの仕掛け人がいたらしいが、
2011年のエジプト革命のムバラク大統領後退劇の裏には、果して一体誰が...
そう思っていたら、新政権の顔ぶれを見て
「ああ、なるほど!」
ムバラクがテロ組織を厳しく捕まえ、処刑し過ぎたムスリム同胞団の名前が、そこには入っていた。いずれにせよアラブの春ないしは二回目のエジプト革命にも、仕掛け人はいたのだと思う。
このように2011年にエジプト革命が起き、
「また三年後ぐらいに大きい何かが起こるのかな」
と思っていたら2014年9月に外務省付近爆弾テロが発生した。
2015年には、カイロ市内で爆弾テロが起こり、ギザのピラミッド付近では検問所襲撃テロ、
そしてクロアチア人労働者殺害やロシア旅客機墜落事件(乗客及び乗員全224人死亡)が起きた。
2017年にはアレクサンドリアのコプト教会で発生した連続爆弾テロ(47人死亡)、
その後、治安当局を標的としたテロが繰り返され、
同年11月、シナイ県エル・アリシュにあるスーフィー主義(イスラム教神秘主義)信仰者が参集するモスクが襲撃された。(300人以上死亡)
2018年には中部のミニヤでコプト教会に向かうバスを標的とした襲撃テロ(少なくとも7人死亡)等が起きた。
2019年は首都カイロ市内における治安当局との銃撃戦が勃発、自爆テロも起きている。
新しいテロ組織も次々生まれ、また外国人や外国の組織との合流もあり、もう何が何だか...
私のエジプトストーリーはこの後も続きますが、さすがにしつこいので90年代の思い出を大方書ききったここで、一旦止めておきます。
90年代のカイロの街にはまだラクダやロバが歩き、街の中心地にも乞食の子供達が大勢いました。
あの頃、ガソリン代1リットル1エジプトポンド(当時のレートで30円)でした。
今現在、約8.4ポンドであることを考えると、物価の上昇率はえげつない、しかも誰も給料は上がっていません。(日本もだけど..)
90年代、私は国際電話をかけるために、電話局までタクシーを乗りつけ、交換手のおばちゃんに電話番号を書いた紙を渡し、延々と待たされた後ようやく日本の親と会話が出来ました。
日本のニュースも基本的に全く入手できず、心優しい気が利く添乗員さんが持って来てくださる日本の週刊誌を毎回とても楽しみでした。
それでも日本の情報には疎く97年に帰国した時、渋谷の街を歩いていると、"ガングロ""ヤマンバ"だらけで
「いつの間にかアフリカ人とのハーフちゃんがこんなに増えたの!」
と本気でびっくりしました。
90年代のエジプトはテロ事件も多かった反面、取り締まりも徹底しており、私の住まいの電話も盗聴され、手紙も検閲されたこともありました。
そもそも手紙そのものがどこかへ紛失し、私の手元に届かないことも多かったけれど。
スーパーは日本人の空手家岡村氏の経営する店舗一軒しかなく、そこは小さなスーパーなのだけども、日本人だけでなく外国人たちの憩いの場でもあり情報交換の場でもありました。
アラビア語クラスの外国人たちは本当に仲が良く、お互いを支え合い協力しあっていました。
授業に出るたびに毎回クラスメートの誰かがカッカ憤慨しており
「エジプト人に"お前の英語は分からない、もっと英語の勉強しろ"と偉そうに言われた。俺は生まれ育ちもニューヨークのアメリカンなんだが」
「またマクドナルドで食中毒になった」 「中華レストランで食事したら、野菜炒めの中から固形石鹸が出て来た」 「120kgのエジプト人のメイドに体重計に乗られ壊された」 「大家の息子に空き巣に入られた」...
愚痴は途絶えない。これもそれもカイロのような、"事件"だらけの街ならではのことです。
90年代には、エジプトに初めてマクドナルドやKFC、ピザハットが進出。
それまでは、ハンバーガーはナイフとフォークで食べるものだと誤解されていたのですが、マクドナルドのテレビコマーシャルが
「皆さん、ハンバーガーは素手で食べるんです!」
と一気に流しました。センセーショナルでした。笑
次から次にアメリカ資本会社がエジプトに入って来ていました。それは非常にめぐるましかったです。
また90年代のエジプトには日本のゼネコン/ODAも多く入っており、カイロの新オペラハウス建設、スエズ運河のトンネルを手がけ、
その他国内の様々な病院や学校も建設し、日本の活躍もたいしたものでした。
(ほぼ同時に日本とエジプトの政権が交代してから、それ以前より両国の繋がりが希薄になった気がするのは気のせいでしょうか?)
日焼けした真っ黒のゼネコン日本人男性集団にはよくいろいろな高級ホテルのレストランで遭遇しました。
「金が貯まって貯まって困っているんだよねー」
「リビアやアルジェリアの方がもっと貯まるらしいよ」
「そりゃあ大変だな、こまるよねぇ」
と日本語で大声で愚痴り、ため息をつく日本人ゼネコンマンもいました。
そういう日本人はエジプト人のウェイターに、50ポンドという破格のチップも渡していました。(普通は高級レストランでも多くて7,8ポンドが相場でした)
そのせいで、貧乏日本人留学生たちもあらゆる場面で「もっともっとチップを払え」と不当請求され、大きな迷惑を被っていました。
でもかたや同じ日本から来た留学生、ということでずいぶんご馳走もしてもらえました。全員、ジェントルマンでした。笑
考古学の現場でも、日本人チームはローカルのエジプト人労働者たちに多過ぎるチップを与える、とかで他国の発掘チームはカンカンに激怒していました。
同時に日本人発掘チームは最新機材をどんどん導入しパフォーマンスも派手だ、と他国チームは歯ぎしり嫉妬もしていました。
しかし今や日本人発掘チームの悪口を言う多国籍チームはいません。すっかりその実績実力を認められているようです。
ちなみに発掘現場というのは、特に古代の墓の中は"三密"です。
私の知る某外国人発掘メンバーも去年ひとりコロナで亡くなり (←やはりカイロの病院のレベルの問題もあったようです)、もうひとりは後遺症で呂律が全く回らなくなりました..
90年代のエジプトは、いろいろな意味で特殊な時代でした。
ここには結局書かなかった(書けなかった)もっと辛いことや悲しいこともいろいろありましたし、後悔や反省することも多々ありますが、
なるべくありのまま、綺麗事ではなく率直に当時経験した出来事をそのまま感じたことをそのまま書きました。
全部読んでくださった方々に心からお礼を申し上げるのと同時に、ヨウコさんの件は、ああいう殺され方をしただけでも悔しいのに、
その後もエジプト人にも日本人にも誹謗中傷を受け、友達として私はとてもショックを受けました。
今回、ヨウコさんの件を書こうかどうか迷いましたが、少しでも彼女の名誉挽回を果たしたい思い、
日本人女性は割と特殊な外国に嫁ぐことも多いので、それは美談ばかりではないというのを発言したかった。
さて、何度も書いたとおり90年代、エジプト国内線機内もピラミッドもアブシンベル神殿も日本人ツアーだらけでした。
数便を一気にチャーターした農○ツアーの大団体が飛んで来た時は、ルクソールの王家の谷に"東北弁だけ"が飛び交っていた (!) ことや、
仰々しかった皇族の○○宮家のエジプト観光もありましたが、その費用の出所を勘繰る日本人などひとりもいなかったことや、
海外視察という名目の自衛隊の大規模グループがエジプト観光に来た時は、エジプト人の軍隊が護衛に付いたとか (!)、
今思えばツッコミ満載なツアーもいっぱいありました。笑
アメリカほどではなくとも、エジプトでの日本フィーバーといおうか勢いは大きくその代表が『おしん』!
テレビで『おしん』が始まると、エジプト人のおばちゃんたちはみんな居間のテレビ前でくぎづけになり、
茶屋のテレビの前では人だかりができて、エジプト人はオッサンたちも泣いていました。
街を歩けば痴漢とスリと詐欺師と野犬とこじきに出会いまくりましたが、それらと同じくらい日本好きの人々にも出会いました。
「なんでも日本製が最高、一番!」 「日本はvery good country」 「日本に行きたい」 「We love ヤバーン(ジャパン)」等など、いきなり呼び止められたり、ガッツポーズをされたり拍手されたり、求婚されたり!
私の初エジプト入国の時、入国審査官に
「おしんはまだ生きているのか」
と聞かれたと書きました。うっかりその時、
「死んでいると思う」
なんて答えてしまい審査官を泣かせてしまいましたが(←本当に目からウルッと涙がこぼれた、びっくりした)、
今ならこう答えます。
「おしんは不滅、絶対死なない!」。
不思議と、私のエジプトとのかかわりあいはまだまだ続きそうですが、その話は多分いずれまた、インシャアラー。
そしてアシュフェクボクラ、インシャアラー(また明日会いましょう!)
(↑※エジプトでは、"明日"とは"いつか多分きっと"の意味なので、あしからず! 笑)
(ひとまず)おしまい
追伸
※トップ画像がムバラク大統領とダイアナ元妃なのは、90年代のエジプトの思い出トップのお二人なので...
(テロの箇所参照:https://www.moj.go.jp/psia/ITH/situation/ME_N-africa/Egypt.html)
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