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春の嵐ならぬ、春の砂嵐

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春の嵐ならぬ、春の砂嵐がエジプトでは吹き荒れる。

毎年冬の終わりから春の初めにかけて、砂嵐(カムシーン)が猛威を振るった。

カムシーンというのは、アラビア語で数字の"50"を意味する。50日間、砂嵐が続くので、砂嵐自体をカムシーン(=50)と呼ぶ。


もともと、エジプトでは、年がら年中どこも砂埃が酷く、ちょっとカイロの街を歩くと、顔が真っ黄(真っ黒)色になってしまう。

汚い話で恐縮だが、鼻の穴も真っ黒になり、鼻垢(クソ)が溜まる溜まる..日本で普通に生活しているよりも十倍は鼻垢(クソ)が溜まる。

コンタクトもハードレンズだと、空気上を舞う砂埃で、目が痛くてたまらない。実際、当時カイロの眼科では、ハードレンズはまず売っていなかった。

余談だが、ラクダだけは砂嵐の中でも目を開いていられた。ふさふさのまつげが目を守っているからだろう。

アラブ人もマスカラなんて一切不要なほど、まつげが多くて長い。おそらく砂漠という土地柄なので、そこに生きる人間のまつげも進化したのではないだろうか。


団地の窓を閉めきってずっと部屋閉じこもっていても、なぜか私の顔も身体も汚れた。化粧水を染みらせたコットンで、顔や手を拭くとそのコットンが真っ黒になる。

つまり、年がら年中ただでさえ空気が汚くてどうしようもないのに、4月の砂嵐の時期になると、街中のゴミや埃が飛び散らかり、そりゃあもう街も人もしっちゃかめっちゃか汚くなった。


ちなみにエジプトを漢字で書くと、"埃国"。「砂埃が吹き及ぶ土地」というイメージから付けられたらしいが、まさにこの漢字表記のとおりだ!上手い!


私がナセルシティの団地に住んでいた時にも、カムシーンの時期がやって来た。

すでにカムシーンは何度も経験していたが、さすが砂漠地帯。その迫力、砂嵐のけたたましさはナイル川側の、市内中心部とは数段に桁違いだった。

まず、浴室のガラス窓が割れた。外を覗くと、砂の渦がグルングルン暴れており、空は黒っぽくどんよりだった。

団地のオッサンやオバサンらは

「最後の審判の時が来たんだ!」と騒いでパニックだったが、バワーブ(番人)の娘、ゼイナいわく

「あの大人たちは、砂嵐が来るたびに毎回"最後の審判"とわめいているの...」と冷めていた。

              ※

激しいカムシーンで外に出られない日は"ピンポンダッシュ"が増えた。

同じ団地に住む子供達が、外で遊べないので建物内で走り回る。で、いろいろな家庭のベルを鳴らしては、クスクス笑って階段を駆け抜け逃げる。

ここでも、特に私が狙われた。ほかの家のように、怖いお父さんもいないし、"アフリカ人"だからナメられていた。

どういうことかというと、日本人の私が、アフリカ人(エジプト人)の子供達に「やーいやーい、アフリカ人!」と囃し立てられていた。

多分、子供の誰かが「あの外国人女、何人かな。日本人かな」。「いいや、アフリカ人だよ、絶対そうだよ!」となったんじゃないか、と思うが、

アフリカ人でもインド人でもどこの国の人間と思われても結構。そこは全然気にならない。人間なら何でもいいですって感じでデシタナ。ただピンポンダッシュだけは止しておくれ...


さて、砂嵐が一際激しいある日...

ピンポンピンポン鳴らすベルが、どうにもこうにもしつこい。呼び出しベルを鳴らないように、元を切ろうとも思った。

だけど、うっかり余計"なことをすると、スィッチを戻しても二度と鳴らなくなるんじゃないか、と思うとそれも出来ない..(←エジプトだからそういうことはさもありなん)

とにかく、ああうるさいなあと玄関ドアを開けた。

バッ逃げ去る子供達の姿がそこにあると思ったのだが、なんとひとりの若いエジプト人女性がニコニコして立っていた。

「コンニチハ、ハジメマシテ。私は九階に住むニビーンと申します」。

「えっ?日本語!??」

雪女ごとく、砂嵐女の幻覚なのかなと本気でびっくりした。

「私はカイロ大学で日本語を専攻しています。

同じ団地に日本人の女の人が引っ越してきた、という噂を聞いてお話したいと思っていました。でもなかなかチャンスがなくて...

だけど今日は砂嵐が酷いから、絶対部屋にいると思いました。

何度もベルを鳴らし続けてごめんなさい」。

(※本当はこんなに流暢な日本語でもなく、英語も混ざっていましたが、読みやすいように書き直しています)

「よければ、今からうちに遊びに来ませんか。母も会いたがっています」。


そして、遠慮なく階段で二つ上の九階に上がった。

中に入るとご家族が「ウェルカム、ウェルカム」とニコニコして招き入れてくれた。

居間の空間はとても心地好く、モノが良さそうな絨毯が敷き詰められ天井はゴージャスなシャンデリアで、壁にはカラフルなタペストリーなど飾られてあり、あたたかい雰囲気に包まれていた。

殺風景な自分の部屋とは大違い。とても同じ団地の部屋だとは思えないほどだった。

ご両親はとても感じが良かった。お二人とも英語を話した。

聞けばお父さんは大学で哲学(だったかな?)を教えており、お母さんはバークレー銀行で働いていた。

なので非常にインテリな一家だ。ちなみに後でニビーンが言っていたが(私から聞いたのではない)、お父さんの給料は7,800ポンド(約2~3万円)。

博士号を持っていてアメリカに留学経験があっても、この額だ。だから外国語ができる大学教授は、外国人相手の観光ガイドのバイトをしたり、中にはタクシー運転手のアルバイトもしていた。

もしくは外国に出てしまっていた。医者も弁護士も薄給なので、優秀な頭脳系職業の専門家はみんな国外に出てしまっているのだ。

余談だが、そんなんだから、エジプトの政治家が重症になると国内にはろくな医者がいないので、スイス辺りまで飛び、そちらの医者にかかるのが常だった。

外資のバークレー銀行に勤める、ニビーンのお母さんの給料は月200米ドル(約600ポンド、二万円)だったそうだ。悪くないが、先進国の人間の感覚だと、びっくりだろう...


ニビーンには高校生と小学生の弟が二人いた。高校生の男の子の方は兵役に服すのをとても嫌がっていた。

エジプトも韓国のように、兵役制度があり、私の記憶違いだったかもしれないが、一人息子だと行かずに済んで二人以上息子がいると、確かどちらも兵役に取られるんじゃなかっただろうか。

(いろいろ国の兵役制度の話でちょっと頭が混乱しているので、間違っているかも)

でも裕福な家庭の息子だと、兵役でも楽な部隊に配属され、そんなに苦労しないらしい。

            ※

ニビーンのお父さんに家賃を聞かれた。迷ったが正直に答えた、550ポンド(約17000円くらい)だと。

「それは高い!」

お父さんはびっくりした。やっぱり外国人料金を取られているのだろうな。

お父さんは続けてこう言った。

「私たちは、ギザに家を建てるつもりで、ここは仮住まいだ。値段が上がったら、ここを売るつもりだ。

ナセルシティの不動産は間違いなく高騰する。

エジプトでは外国人も家(建物)も土地も買えるのだし、投資で君もこの団地の部屋を購入しちゃった方がいいんじゃないか。そんな馬鹿高い家賃を払い続けるなんて、もったいないだけだしね。

少なくとも、今のうちにカイロ市内のどこかで不動産を買っておいた方が得するよ」。

...

まさか、と思った。

こんな街の不動産の値段が上がる? 信じられないし第一、エジプトの不動産売買は非常に難しいことは方々で聞いていた。

書類書類書類、かつ日本以上にルールが厳しくその上、そのルール自体がころころ変わる。

よってエジプトで家や土地を買うという大きな博打なんぞする気はさらさらなく(エジプト人の伴侶でもいれば、話は別)、私はハハハ笑って誤魔化した。


そして、甘い甘いエジプトのお菓子と、甘い甘い紅茶を二杯いただき、自分の部屋に戻った。

(砂糖は少しでいいです、と言っても"少し"の感覚が違うのでドバっと入れられる。ちなみにエジプトで一番多い死因は"糖尿病"らしい。)

ひとり暮らしをしている、自分の部屋に鍵を開けて入った。もちろん真っ暗だ。電気のスィッチを入れても明かりはつかない。またもや停電だ。

淡々とろうそくにマッチで明かりを点す。停電だからテレビもラジカセも電源を入れられない。

とにかく部屋の中は静かだ。ニビーンのアットホームな家をお邪魔した後なのでなおさら淋しさを感じ、久しぶりに大きなホームシックに見舞われた。

              ※


そもそも砂漠地帯の団地ひとり暮らしは、精神的にも孤独に追い込まれやすく、その上まともに睡眠がとれない。

前にも書いたが、まず深夜過ぎの"銃声音"。

警官たちが野犬狩りをしており、銃の発砲音でビクッとするのだ。確かにそのうち"慣れ"てしまい、気にならなくなった(!)ので銃声音はいいとして、

それだけじゃない。"乾燥"も睡眠の妨げだった。

というのも、砂漠地帯は空気が乾燥しきっているため、普段でも喉痛にやられるのに、寝るともっともろに喉が痛くなった。

寝る前に濡れたバスタオルを寝室中にハンガーでぶら下げ、ベッドの枕元にも水を張った洗面器を置いておく。(加湿器など持っていませんでした)

首にもタオルやスカーフを巻いて眠る。が、それでも痛い。喉が猛烈に痛くて痛くて目が覚める。

のど飴を舐めて、タイガーバームなども喉に塗りたくってスースーさせたり、思いつくことは全て試してみた。

だけど、痛い。ひりひりズキズキ、喉奥が悲鳴を上げる。そして、気のせいか、カムシーンの時は、いつも以上に喉痛が辛くなった。

おかげでエジプト生活のせいで、声が低くなってしまった。自慢じゃないが、20の時、留学先の大学からグレイハウンドの長距離バスに乗ってニューヨーク旅行に繰り出した。

ニューヨークのバーで、ヘレン・メリル(ジャズシンガー)に出会い、「ファンです」と私から声をかけた。すると

「あなたはシンガーなの?」と聞かれた。

「いい声を持っているわね、歌手を目指しなさい」。

あの大御所ジャズシンガーに、声を褒められたのだ。

そのくらい美声(!?) だった声が、エジプトに住んだせいで、特にこのナセルシティの気候のせいで、全くしゃがれだみ声になった...


「さあ」

と台所でお湯を沸かした。プロパンガスなので、停電でも火をつけられた。

甘い紅茶ではなく、まずいタイ製カップヌードルをすすり上げながら、ろうそくの明かりの下でアラビア語の宿題を始めた。

私しか人間はいないので部屋の中は静寂が流れているが、窓の外はゴーゴー砂嵐が猛音を立てていた。


以下、この日199×年4月某日の、私の下手くそアラビア語メモより:

"明日はガイドでルクソールに行く。だから朝4時起きだ。砂嵐は収まっているかなあ。砂嵐が止まっても今度は野犬が出て来る。全く嫌になるな。

さあそろそろ寝ようか。でも、明日ちゃんと声が出るように(ガイドができるように)、先に喉に濡れたタオルを巻付けよう。"

ベッドに入る前に、寝室の窓から再度外を覗いた。砂嵐が激しく歌うように、たくさんゴミを飛ばしながら舞い続けていた。


つづく

続き↓



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