茉莉花茶と緑茶を愛したチェコ人外交官一家Ⅲ~「ソ連に妨害される前に、日本へ渡れ!真実を伝えて来い!」LOLOのチェコ編㉗
「プラハの春」の12年前に遡ります。
1956年10月23日にハンガリーで、ソ連の支配に抵抗する反乱が起こりました。ソ連軍は直ちに出軍し、それを制圧。
結果、ハンガリー動乱(革命、反乱)は失敗に終わりましたが、西側のメディアは当然のごとく、ソ連を非難し悪者扱いしました。
ソ連としてはそれに納得がいかず、そんな最中。同年10月29日に、今度はエジプトでスエズ戦争がぼっ発しました。
フランスが発見し、工事をして完成させたスエズ運河の利益は、そのフランスと、エジプトの宗主国イギリスが独占していたことが問題でした。
そもそもです。約百年前に作成されたスエズ運河の契約書には、「スエズ運河はエジプトのものである」とはっきり明記されているのに。
そんな最中、エジプトは急激な人口増加と高度成長期を迎え、耕地面積を増やさねばならなくなり、至急、ハイダムの建設の必要に迫られました。
本来はイギリスが出費することになっていたのですが、それを反故してきました。
理由として、1952年にエジプト革命が起こり、この国がムハンマドアリ王朝のエジプト王国から、軍人たちが政権をとった共和国に変わったこと(契約上の国家ではなくなったこと)。
それにです。イギリスにおけるエジプト占領の契約期間がそろそろ終了を迎えることになっていた、などです。
ソ連がハイダムの援助を申し出てくれたものの、建設するには全然資金が足りません。
そこで、当時のエジプト政府は再度、昔のスエズ運河の契約書を見直しました。すると、やはり
「運河がエジプトのものである、と間違いなく書いてある」
なぜこれが明記されているのかといえば、約90年前のエジプトの副王だったイスマイールがナポレオン三世を相手に、この一行を加えるのを無理やり認めさせるのに成功していたからです。
しかし、この契約書の有効期限がもう迫っていました。もう少ししたら、契約更新になりますが、そうなったら、英仏は絶対にその文言部分を取り除くのに決まっています。
「現契約書の有効期間中に一刻も早く、スエズ運河の国有化宣言を行わねば、永遠に我々は運河を取り戻せない。それにスエズ運河を国有化させれば、その莫大な運行料がエジプトに入ってくる。その利益をハイダム建設費用に回せる」
そして1956年7月26日、英仏に一切黙ったまま、エジプトは世界に向けて唐突にスエズ運河国有化宣言を行いました。その演説と同時に、ポートサイードにある、イギリス人フランス人の社員がいるスエズ運河株式会社の本社を素早く差し押さえしました。
私はこの一連の出来事を「エジプトのビロード革命」と密かに名付けています。あまりにもパッパ行い、見事でしたから。
ところが、言うまでもなく英仏は激怒しました。しかしいきなりエジプトを攻撃するわけにいきません。その最大の理由は、エジプトはまだイギリスの占領国だったからです。
そこで英仏はイスラエルにエジプトを攻撃させ、戦争を起こさせることを思いつきました。
イスラエルとエジプトがドンパチを始めたタイミングで、英仏はあくまでも「それを止める」という名目で、参戦します。これが悪名高い「三銃士(マスケティアーズ)」計画です。
イスラエルがこの話に乗ったのは、イスラエルから地理的に近いスエズ運河から巨大な英軍が去り、代わりにエジプト軍が置かれるようになることを危惧したからです。
なおアメリカ大統領だったアイゼンハワーは、二度目の大統領選挙直前だったため、素知らぬ顔を通しました。
エジプト(シナイ半島)に奇襲攻撃を仕掛けることを計画したイスラエル軍が、その軍路を作るために、道中のアラブ人(パレスチナ人)の村を破壊し、虐殺したことはその後、世に暴露されましたが、それはさておき、
エジプトは英仏が攻撃してくることは予想していたものの、まさかイスラエルまで加わるとは思っておらず、その体制を整えていなかったため、形勢不利でした。
前の投稿にも書きましたが、そこでエジプトは広島型原子爆弾を入手し、イスラエルにそれを投下しようか、ぎりぎりまで迷いました。(実際に原爆を持ったかどうかは謎です)
なかなか決断ができなかったのは、広島に原爆が落とされてからすでに11年が過ぎており、原爆の威力が更にパワーアップしていたためです。ガザ地区などへの被爆を躊躇し、決断が難しかった。
しかし、そこに救世主のごとく、突然現れたのがソ連軍でした。
ソ連軍が援護に駆けつけたー
感極まったエジプト人はソ連軍を英雄視し、拍手喝さいを送りました。
そう、ソ連軍がポートサイード(スエズ運河の街)に上陸し、エジプト軍の味方についたのです。すると途端に形勢が逆転しました。その結果、エジプトは原爆投下計画を白紙に戻しました。歴史が変わる分岐点でした。
ソ連軍側は大いに気を良くし、ご機嫌になりました。なぜなら、ハンガリー動乱の鎮圧で、世界中から悪者扱いされ、くさくさし面白くなかったものの、エジプトを助けたことにより、今度はうって変わって各国からも絶賛されたからです。願ってもない憂さ晴らしにもなりました。
スエズ戦争は結局、国連の仲裁が入り、世界中から非難が集中したこともあり、停戦の形で幕を閉じました。しかし、実際はエジプトの勝利です。なぜなら、結局は一方的に宣言をしたスエズ運河国有化が成功したからです。
余談ですが、スエズ戦争では日本はエジプト側を支持しており、経済面でも多いに助けました。このことが、その後の日本とエジプトの強固な関係の基礎となり、だから日本のゼネコンも一気にエジプトに入っていけたのです。
実際その後、日本政府はスエズ運河の拡張工事に技術面でも資金面でも大いに協力をし、1兆円(当時の!)に近い援助を行いました。さらに1990年代にはスエズ運河トンネル修復工事も日本の建設会社が行っています。
*
エジプトはスエズ戦争で事実上の勝者になり、扇動者であったナセル大統領は世界的な「英雄」に持ち上げられました。今でもナセルは伝説です。
かたや、同時期にハンガリーで起きていた動乱は失敗に終わり、指導者ナジ・イムレは処刑されました。イムレはナセルとの共通点が多くあります。二人とも貧しい出で、改革派の政治家であったことなど。
しかしクーデターに成功した、エジプトのナセルとは異なり、イムレはそれに失敗した…。
*
ところでナジ・イムレのハンガリー動乱の時、チェコスロバキアはどういうスタンスを取っていたのでしょうか?
チェコスロバキアは第二次世界大戦前に議会制民主主義が機能していた国で、1948年5月30日、議会選挙が行われ自由選挙で選ばれた「非」共産党が政権を握っていました。
しかし、その後すぐに閣内不一致で非共産党の閣僚が辞任。これに便乗した共産党が実権を掌握し、直後の総選挙で圧勝しソ連の衛星国になりました。
「衛星国」とはソ連は太陽のように全領域の中心的な地位を独占し続け、周りの国は衛星のようにソ連の指示を従うしかない実態である、ということです。
つまり主権国家として独立しているけれども、主要政策でソ連と言う大国により主権を制限された国家を指していました。例えばモンゴル、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ブルガリア、ユーゴスラビア、アルバニアそしてチェコスロバキアなどです。
ソ連の初期の同盟国となり、衛星国の一つになったチェコスロバキアはスターリン主義手法で国内の社会主義化を推し進めていきました。とはいうものの、西側の欧米列強との経済的なつながりを断ち切ることはありませんでした。
そして1956年に反ソ暴動がポーランドとハンガリーでぼっ発しました。しかしこの波はチェコスロバキアには広がりませんでした。
というのはです。実のところ、彼らチェコスロバキアの人々はなんとです。ハンガリー動乱を苦々しく思い、チェコスロバキア政府は、ハンガリー人達の反乱が成功しないようにと動いていました。
あるチェコのジャーナリストによると
「ハンガリーで大きな反乱が起きた初日。プラハの人々は宝くじに興じ、ブラチスラヴァの人々はホッケーの試合に行って夢中になっていた。彼らはハンガリーで起きた深刻な衝突や反乱に、関心を抱かなかった。
なぜなら、特にチェコ人は高い水準の生活をしており、それほと社会や政府に強い不満を抱いていなかったから、ハンガリーで起きた出来事をむしろ白けて傍観するだけだったからだ。
それにだ。もう一つの重要な理由は、チェコスロバキア政府の迅速な事態処理の結果だった。もし弱い政府であれば、これほどうまく事態を処理することはできなかっただろうし、ひょっとしたらハンガリーで起きた反乱の影響に、巻き込まれる事態に陥ったかもしれない。」
実際、当時、チェコスロバキアの指導者(政治家)たちは、ハンガリー動乱が始まるやいなや、直ちに素早い対策を練って、ハンガリーが社会主義圏から離脱することに成功しないように仕向けました。
もしハンガリーの反乱が成功してしまえば、その影響によりチェコスロバキアが政情不安になる可能性があったからです。
それゆえ、チェコスロバキアの指導者らの最大の関心事は、一刻も早くハン
ガリーでの革命を鎮圧し、彼らの秩序を回復することでした。
ところで、チェコスロバキアのスロバキア側にはハンガリー人たちが少数民族として、住んでいましたが、彼らはちょっと悩ましい立場に置かれました。
自分たちの現状維持か反乱かの二者択一を迫られたのです。ある意味、第二次大戦中のアメリカの日系人の置かれた立場と似ていたかもしれません。
冷静に考えれば、(チェコ)スロバキアのハンガリー系の人々が、ハンガリー革命を公然と支持することは不可能でした。というのは。やはりチェコスロバキアの政府の意向に反する言動を公にとることは難しかった。
それにです。1945年以降のソ連による恐ろしい報復の記憶が、まだ彼らには生々しく残っていました。
よって、スロバキアのハンガリー系の人々は大いに悩んだものの、結局だんまりを決め込みました。
もっとも、少数ながらハンガリーの革命を公然と支持をしたチェコ人やスロバキアのハンガリー人たちもいました。
しかしチェコスロバキア当局は彼らを捕まえ処罰し、チェコスロバキア国内において、反ソ連の反乱が起こる可能性の芽をことごとくかたっぱしから潰していきました。一切の容赦がありませんでした。
*
ハンガリー革命の起きた翌年の1957年、ミロシュ父が外交官として、初めて日本へ赴任するよう命じられました。この時、チェコスロバキア大使館の物件探しから始まりました。東京の土地勘も全くないのに。
なお、なぜチェコスロバキア大使が日本に置かれることになったのかといえば、鳩山一郎による日ソ共同宣言を受け、チェコスロバキアも国交断絶をしていた日本と再び関係を結ぶことになったからです。
その後1961年7月11日、チェコスロバキア社会主義共和国憲法が公布されました。これは完全に国家社会主義の文書でした。
1964年には東京オリンピックの開幕に合わせ、ミロシュ父は再び、チェコスロバキア大使として、日本に駐在しました。
そして1968年8月21日、一家は夏休みの休暇でプラハに戻っていました。ところがです。
その日の早朝、開いた窓の向こうの通りから
『ロシア人が私たちを占領している!』
という叫び声が聞こえました。
最初、ミロシュ両親はそれを冗談だと思いましたが、念のためすぐにラジオのニュースを付けました。
ミロシュの母が語りました。
「夫も私も本当にロシアが侵攻してきたことを知りました。それで私たちはすぐにヴァーツラフ広場に向かいましたが、そこにはすでに戦車と大勢の人が集まっていました」
話が逸れますが、2002年頃、ブダペストで私が仕事で出逢った日本語通訳のハンガリー人の男性がいます。
「すぐ隣のプラハには何度も行っているのですか?」
私が尋ねました。
「いいえ、あまり興味がないので近いですが一度しか行ったことがありません」
そのハンガリー人の日本語通訳が答えました。
「それは最近ですか?」
「いいえ、1968年でした。私は戦車に乗ってプラハを侵攻しました。それが最初で最後の私のプラハ訪問(!)でした」
プラハの春を弾圧するために、ハンガリー軍が大挙に押し寄せていたことを、この時私は初めて知りました。
ミロシュ母は話を続けました。
「夫は起きている現状を目の当たりにし、はっとしました。これはまずい、と彼は顔を青ざめ、急いで外務省の建物へ向かいました。
だけども、あまりの混沌で交通機関は完全に麻痺しており、歩くこともままならず、もみくちゃにされ身動きがとれません。それでもなんとか外務省に到着すると、他の職員たちも必死にたどり着いてました。
夫たちは手分けをして重要書類を安全な場所に持ち帰りました。というのは、プラハの春が成功するわけがないのを分かっており、間違いなくソ連軍がプラハの外務省にも押し寄せるのが間違いありませんでした。
しかしロシアに渡したくない、見せられないマル秘の書類がそこには山ほどあったため、彼らは何もかも外務省の建物に残さないようにしたのです。
必死にその作業をしている真っ最中、外務大臣から夫にある使命を言い渡されました。
『ただちに日本へ飛びなさい。出国を妨害される前に早くチェコスロバキアを離れ、この国で起きたすべてを日本政府と国民に暴露ししなさい』
時間の猶予がありませんでした。本当に急がないと、ソ連軍に出国を止められる可能性があったからです。間違いなく、ソ連はプラハの反乱の実態を隠蔽しようとするに違いない。その前に外国に事実を伝えよう。その一心でした。
夫が家に戻って来ると、説明をされなくてもすぐに事情を呑み込んだ私は自ら率先し、要最低限の荷物をバッグに詰め込みました。時間が勝負でした。この時、持ちだせない大量の手紙や書類、本は全て燃やしました。
そして、信頼する友人の一人に頼み込み、オーストリアとの国境まで車で私達四人家族を送ってもらいました。車中はしいとしていました。息子二人も状況を分かっており、緊張した面持ちで無言でした。
国境手前で車を降りると、私たちは祖国に別れを告げ、国境を徒歩で越え、オーストリアに入りました。この時、もしかしたら二度とチェコスロバキアに戻れないかもしれない、という考えが頭によぎりました。
*
ウィーンでは誰もが歓迎してくれました。チェコスロバキアで何か起きたか知っているので、彼らは同情を寄せてくれたのでしょう。
1956年8月28日、私たちはルフトハンザ航空でドイツ経由で東京に向かいました。
(成田?羽田?)空港では、先に大勢の日本人記者の一行が夫の到着を待ち構えていました。
私たちがゲートを出てくると、彼らは拍手を送ってくれました。夫はそのまま日本人記者たちの前で会見を行いました。国で起きたことをありのまますべて語ったのです。
その後、夫は空港から首相官邸(?)へ直行し、日本の首相や官僚らにチェコスロバキアがロシアに占拠された出来事について報告しました。
日本政府は私たちに大いに同情を寄せて理解を示してくれました。だけどもです。
日本政府はソ連の圧力に屈したのでしょう。東京のチェコスロバキア大使館の建物に掲げられたチェコスロバキア国旗が半旗に下げられました。
この時の夫の悲痛な表情を私は忘れません。かつて二人で一生懸命探して開いた思い出の大使館の国旗がそんなことになったのです…。
想像できますか?他国の圧力により、自分の祖国の大使館の建物から、国旗が低く下げられたのですよ。私も強いショックを受けました。怒りと屈辱と悲しみで、拳を強く握ったまま涙を流しました。
その後も、夫と私は意気消沈したままでした。ところがです。日本人たちがそんな私たちを励ましエールを送ってくれました。
もともと戦後、ロシアに苦しめられた経験を持つ日本の人々。特に(ロシア軍にさんざん虐められた)満州引き揚げ者などが応援や励ましの手紙だとか、小さな感動的な贈り物を、都内のチェコスロバキア大使館に持って来てくれました。
「元気を出してください」とスイカを持ってきてくれた日本人の小学生たちや、プラハを訪れたことのあるマサヨシ・イワブシが詩「トリコロール」を書いてくれたことなど、私はよく覚えています。
日本人は日頃は大人しい人々ですが、こういう時は非常に頼もしいのです。
ちなみに、東京のチェコスロバキア大使館に寄せられた問い合わせの中で、圧倒的に多かったのは「ベラ・チャスラフスカは大丈夫か?」というものでした。
東京オリンピックのアイドルだった、元体操選手の金メダリストの彼女がどうなったのか。無事なのか。元気にしているのか。
ソ連軍に捕まっていないか。日本人たちは気が気でないらしく、チャスラフスカの安否を問い合わせる電話と手紙、そして突然の来訪があまりにも多かったのは、今でも印象に強く残っています。
というのは、当時すでに東京オリンピックが終わって、何年も経っていました。それなのに、日本人たちはまだベラ・チャスラフスカのことを忘れていなかったのです。それどころか、心底彼女を心配していました。私達は大いに驚き感心し、そして感動しました。」
*
駐日チェコスロバキア大使のミロシュ父は、東京から公然とロシアの侵攻を非難し続けました。周囲は心配し、それを止めようとしましたが、ミロシュ母だけは一切何も言わず、夫の信念に任せました。
その結果、翌年の1969年、ロシアの圧力がついにかかりました。ミロシュ父は駐日チェコスロバキア大使の座から引きずりおろされ、日本にもいれられないように手を回されたのです。
日本政府はミロシュ一家を守らなかったのでしょうか?このあたりが気になりますが、日本側からの当時の証言は出ていません。
大使ではなくなったミロシュ一家は日本に住み続けることができなくなり、チェコスロバキアに帰国しなければならなくなりました。
しかしこれには大いに不安がありました。というのは、祖国に入国したら逮捕されるかもしれないからです。非常に緊張感が漂いました。しかしこの夫婦はアメリカなどへの亡命を考えることは一切なかったといいます。
「何も悪いことをしていません。夫はただプラハで起きた出来事(1968年のプラハの春)についてありのまま語っていただけです。実際、ソ連の侵攻は許されるものではありませんでしたから、それを堂々と非難していただけです。
なので、後ろめたいことは何もない。私たちは胸を張って堂々とチェコスロバキアへ戻りました。ひょっとしてプラハの国際空港に到着するやいなや、包囲され連行されるかもしれない、という緊張と恐怖がなかったとは言いませんが。
ところが、プラハ国際空港に到着し足を踏み入れても、私達には特に何も起きませんでした。
もっとも、ほっとしたのは束の間でした。夫はすでに敵対者リストの危険度No.1に登録されていたのです。
ちなみに、夫の名前の横にはたまたまヴァーツラフ・ハヴェル(のちのチェコ共和国の大統領)の名前も記載されていました。
敵対者リストのAランクにされていた夫は外務省をすぐに解雇されました。そこで古巣の東洋研究所の職に就きましたが、これもあっという間に解雇されました。
もちろん、夫は家族を養うために必死に就活をしました。しかし予想はしていましたが、ことごとく門前払いをされ、面接にこぎつけることも不可能でした。
主人にかつて助けられ、大きな借りがある人々にも頼ろうとしましたが、彼らも冷たかった。関わるまいとしたのでしょう。誰もが素知らぬ顔をしました。以前は「何かの時は必ず恩を返します」と言っていたのに。
夫は就職ができないようにされただけではなく、図書館に行くことも禁じられ、(すでに何冊か中国、日本関連の書物を出版しているものの)あらゆる書物を出版することも許されませんでした。
例えそれが、中国茶と日本茶についてだとか、中国や日本の盆栽や落語に関するといった、政治とは無関係な内容でも、彼が執筆することは許されませんでした。徹底的に夫の名前が陽の目に当たらないようにさせられたのです。ソ連による嫌がらせです。
それでも、ある人物の協力により、なんとか大学の教職に再就職することはできました。ところがすぐに退職するよう圧力をかけられ、実際そうせざるをえなくなりました。
一方の息子たちですが、次男はプラハに戻った後、美術工芸高校へ入学を志願しましたが、(親の政治的思想が問題のため)入学願書を返送されました。
しかし、校長の尽力のおかげで、次男はなんとか入学試験を受けられ、無事に合格して入学することができました。ここまで非常に大変でした。
長男ミロシュはカレル大学の教育と成人教育の分野の哲学学部に入学しましたが、2年目に、(政治的思想がまずい父親を持っていることを理由に)退学処分を言い渡されました。
だけども幸いなことに、大学の理事会には理性的な人々もいました。
ミロシュは決して父親の政治的思想とは関係ない、と彼らは主張してくれ、おかげでなんとか在学継続を認められ、退学処分の命令を取り下げられました。」
その代わり、ミロシュは父親の反ロシアの思想の影響を受けないように、と大学寮に入ることを条件に出されました。住まいは大学と同じプラハ市内であったのにも関わらず、両親の家を出て寮生活し、実家には帰らないように言われたのです。
いずれにせよ寮生活は本人にとっていい経験になるし、例え息子の思想が親の思想とは別のものになってもそれはそれだ、とミロシュ両親は大学の命令を受け入れました。
そうしてミロシュはカレル大学の学生寮に入りました。ところがこれが苦痛でした。無理もありません。二度に渡る東京生活では、日本人の家政婦たちにちやほやされ、「お坊ちゃん、お坊ちゃん」と甘やかされていました。
それがいきなり寮生活です。しかも当時のカレル大学の寮は殺伐とし、いかにもコミュニストの寒々しい寮でした。(本人談)
それにです。寮の仲間たちとはうまくいきません。
「お前のチェコ語はなんかおかしい。それにチェコ人なのにチェコ語の読み書きも不得意なのは恥ずかしいことだ」
などと軽蔑されました。
東京ではソ連学校そして英語と日本語が主体のインターで学んだので、それも仕方がないことです。
また会話もかみ合いません。プラハで育っていないミロシュと、プラハ育ちの同年代のチェコ人学生たちとの間では共通事項が何もないのです。
「つい、日本語で”ええと”とか”よっこらしょ”とか口に出ちゃったりして、そのたびに怪訝な目で見られたなあ。ははは」
学生専用男子寮に入ってしばらくした時のこと。大学には内緒で、こっそりと女子寮の女子学生たちとパーティーをすることになりました。
ところでミロシュは両親から何度も何度も最初の出逢いを聞かされていました。大学のダンスパーティーで初めて出逢い、一目で互いに恋に落ちすぐに結婚した話です。
「自分も両親のような運命的な恋愛と結婚をしたい」
密かにそう思っていたミロシュでしたが、このパーティーで出逢ったのがクリスティーナ(仮名)でした。
「赤いベレー帽を被った彼女はとびっきり可愛かった。胸がばくばくした」
ちなみに私に言わせれば、クリスティーナと、若い時のミロシュ母は見た目がそっくりです。背丈や顔、髪の毛と目の色も同じ。あまりにも似ています。
クリスティーナに一目ぼれしたミロシュは、かつて父が母にしたように、彼もクリスティーナに歩み寄り話しかけました。ところが日本でさんざんプレイボーイだったのにも関わらず、緊張のあまり口ごもり上手く話せません。
クリスティーナはくすっと笑いました。
「僕は外国育ちで、チェコ語が少々苦手で…ごめん」
顔を赤らめたミロシュがおろおろしてそう話すと、彼女は優しく微笑みました。
「私も同じよ」
「えっ?」
「父が大使だったので、ずっとベイルートにおりましたの。だから私も祖国で育っていないんです」
これを聞いた瞬間、ミロシュは完全に運命を確信し、そしてこのわずか2時間後に求婚。そして数カ月後に入籍しました。ミロシュもクリスティーナもまだ二十歳になっていませんでした。
つづく
ヘッダー画像:
https://praguemorning.cz/january-5-1968-the-prague-spring-begins/
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