紅海の水中の神々よ
ところでエジプトで起きた最も不思議な、そして同時に最もラッキーだった出来事は、『紅海の中に現れたミステリアスなヒーロー二人』事件だった。
シナイ半島の最南端にラスムハンマド岬がある。
1994年当時は対イスラエル(だったかな?)の軍事施設がある関係で、一般ツーリストは一切立入禁止エリアだった。
しかしラスムハンマドのビーチの美しさは格別で、ちょっと海を見下ろしただけで肉眼でいくらでも色鮮やかな珊瑚礁がバッチリ見えるという評判は有名だった。
世界一美しい海の一つだとすでに知られているということで、とあるエジプト駐在日本企業が慰安旅行で、ラスムハンマドに訪れたいと希望を出した。
するとエジプトの軍から許可がおりた。特別にこの日本企業の社員旅行は受け入れる、と。(←相当バクシーシは払ったのだとは思う)
私の女友達の叔父さんが、そこの社員だった。
彼女がエジプトに遊びに来た時、私もついでにその叔父さんのご馳走になったことがあった。
その関係でこのラスムハンマド貸切り旅行に、私にも声をかけてくださった。
姪っ子の友達というだけの、全く赤の他人の私を会社の慰安旅行に呼んで下さったのだ。
「普通は行けない入域禁止ビーチだから、せっかくだから一緒に行こう。連れて行ってあげるよ」。
さんざん勿体振られ、これがどんなに特別なことであるのか、
「二度とこんな機会はないよ」
とまで得意顔で言われたが、その数年後には、ラムハンマドビーチはあっさり観光地に開放されましたナ...
カイロからシャルムエルシェイクまで飛行機で飛んだ。もうここは完全に"イタリア"だった。
シャルム(エルシェイク)のビーチではビキニ姿のイタリア人女性が堂々と日光浴をしていた。トップレスは禁止だったので、確かそれはさすがにいなかったけど。
ここのビーチではイタリア語が飛び交い、エジプト人の従業員たちもイタリア語と英語を話した。
ちなみに同じシナイ半島のハルガタは"ドイツ"だったので、同じエジプトの島でもビーチによってヨーロッパ人の人種の住み分けがされているようだった。
シャルム(エルシェイク)のホテルにチェックインした後、この"日本企業の御一行様"は軍のトラックに先導され、ラスムハンマド岬に向かった。もちろん、スナイパーは同乗していた。
ラスムハンマド岬は本当に立入禁止地区で、まるで昔の東西ドイツの国境のような(←東西ドイツ時代の国境に行ったことがある) 物々しい厳重警備体制だった。
が、ビーチに入ると本当に誰ひとりいなかった。さきほどのシャルムエルシェイクビーチの、イタリア人でゴミゴミした喧騒感とはまるで違った。
「俺たちの貸し切りだぞ!」
日本人のおじさんひとりがヒューヒューと叫んだ。(←本当に許可申請にいくら袖の下を払ったのだろう...)
私はダイビングをしたことがないので、シャルムエルシェイクのホテルの売店で買ったばかりのシュノーケルを口に装着した。
海の浅いところでもラスムハンマドでは十分美しい海中を楽しめるということだから、立った時に足がつく範囲でぷかぷか浮いていようと思った。
海の中は仙人界だった。美し過ぎて竜宮城があっても水神やドラゴンが現れても、不思議ではないほど幻想的だった。
だから感動のあまりぽけーとひたすら浮いていた。そして分かっていなかった。紅海の波の流れは江の島の海とはレベルが違うということを。
はっと気づくとあっという間に海のずっと先に流されていた。とても自力でビーチに戻れるような距離ではなかった。
自分としてはたった5,10分間だけ砂浜近くでまったり浮いていただけのつもりだったのだが、紅海の威力をナメていた。
「いつの間にかこんな海のど真ん中にいる!」
焦ったがために手足がもつれた。
監視員もいない貸し切りビーチで、ここには軍隊もいない。日本人の皆さんはご家族同士で仲良く過ごされており、誰も私を見ていない。
後で聞いたのだが、友人子叔父さんはビールをがぶがぶ飲んでビーチの椅子で眠りこけていた。
私はどんどん海の底に沈んで行った。全く息ができない。とてもとても苦しかった。窒息死というのはこういうのかと思った。
頭に親が浮かんだ。
「ああ新聞で私が紅海で溺れ死んだという記事を見るんだろうなあ」
申し訳ないなと思った。まだ22,3そこらだったが、私の人生もここまでかと思った。
従姉妹は白血症で小五の時に死んでいる。従姉妹のファンだった西城秀樹 (の事務所) が花を出してくれた。大学の時の、私の親友のお兄さんは自殺し、18の時には私のドイツ人の男友達は事故で亡くなっている。
周りに早死が多かったが、そうか私もそうなんだなと思った。
意識を失いかけた時、二人の人間にレスキューされたのが分かった。その二人に抱き抱えられ引っ張られ、ビーチまで戻った。
息を吹き返し目を開けると、
「あ、天国に来たのかな」
とまず思った。
なぜなら私の顔を覗きこんでいた二人の人間が、ギリシャ彫刻そっくりの、この世の人間とは思えないほどの完璧な美しい顔をしていた。
まさにナルシスそのものの顔立ちで、ヨーロッパでもここまで神秘的に整った顔の人間なんぞ、見たこともない。
私がもう大丈夫だ、と分かるとその二人はどこかへいなくなった。酔いがすっかり冷めた友人叔父さんが、彼らにペコペコ頭を下げお礼を言った。
改めてちゃんとお礼をしたいので、宿泊先を教えて欲しいと、友人叔父さんは申し出たが、彼らは首を横に降るばかりですうっと消えた。
シャルムエルシェイクに戻ってから、ホテルの夜のレストランで日本人の皆さんが
「Loloさんよ、本当に無事で良かった。万が一死なれたら、なぜ監視員もいない軍事施設そばの海水浴禁止エリアので泳いでいたのか、大問題になるところだったよ、ハハハ」。
「...ご迷惑をおかけし大変申し訳ありませんでした」
私はひたすら小さくなるしかなかった。
そして日本人のひとりが言った。
「もうそれはいいけど、君を助けてくれたあの二人は誰だったのかかねぇ」
すると友人叔父さんはビールグラスをドンとテーブルに置き興奮した。
「そうなんだよ、僕も疑問に思ったんだ。イタリア人のダイビングインストラクターたちだって言っていたけど、まず彼らの姿を誰も見ていない。
貸し切りの狭いビーチだから、部外者が現れたらすぐに気づくはずなのに誰も見ていない。
そもそも今日の貸し切りは僕らだけだと聞いていた。いろいろな観点から、二組以上にラスムハンマドビーチ貸し切り遊泳許可を軍が出すとは思えないし。
しかも突然、海の中の深いところに登場したんだろ。そしてLoloさんを助けた後すぐに姿を消したが、僕らのバスドライバーいわく、待機している間他の車は一切来なかった、と言っていた」。
「不思議だねえ」
「うん、本当にミステリアスだねえ」
と皆さんはそれぞれ口に出した。
私はこのラスムハンマド溺れた事件以降、今に至るまで足が着かないとプールにも入れなくなった。
幼少時代から水泳教室には通い、毎年夏には海(といっても江の島とか伊豆...)でも泳いでいたのに、もう海も駄目になった。
例外はイスラエルとヨルダンの死海。死海は完全に身体が浮くので死海にだけは安心して入れた。
そしてイスラエルといえば、あの二人はもしかしたらイスラエルの諜報員、もしくは宇宙人(!?) または水軍の大将だった先祖が守ってくれたのかな!???...奇想天外のことしか思いつかないや。
この紅海溺れ事件の三年後、タハリール広場のエジプト考古学博物館前で、銃を持ったテロリストに遭遇しまたもや「死ぬ」と思った。
もう最後だ、とこの時も思ったが同時に背中に誰かがいて守ってくれている気配も感じた。
その瞬間、見知らぬ少年が私に目掛けて走って来て、メトロの地下道まで誘導してくれた。
もしかしてこれもご先祖のおかげだったのかもしれない。それとももしくはふと思うのが、考古学博物館に眠るミイラたちが助けてくれたのかな、と...
というのも、葬儀屋さんツアーを担当し、葬儀屋さんたちから「死者への敬意を払う気持ちの大切さ」を得々と説かれて以降、
私は必ず全てのミイラに心の中だけど礼儀を尽くしていた。
興味半分で覗いたり、いくらお客さんが喜ぶからっておどおどしい説明をしたり一切しなかった。
また、ミイラをからかったり化け物扱いするお客さんにはそれとなく注意をするようにしていた。
だから頭がおかしいようだけど、彼ら(ミイラ)が守ってくれたのかな、なーんて...
とにかく非常にここでもラッキーだったわけだが、自分の幸運への感謝はさておき、
とても驚いたのはCNNがはっきりと考古学博物館前のテロの現場を収めたビデオテープを公開したのにも関わらず、
これを受けて多くの国々がまたエジプト渡航の注意喚起を強めた中、日本だけは何も変わらなかった。
エジプト渡航の注意喚起のレベルが上がらなかっただけでなく、一本もエジプトツアーのキャンセルが入らなかったのだ。
しかも考古学博物館前テロ事件の後に、エジプトにやって来たツアー客の皆さんに聞いても、誰も博物館前テロのことを知らない上、各日本の旅行会社からも出発前に何も言われていないという。
「何かがおかしい、間違ってる。異常だ」。
いずれにせよ、中東ゴージャス航空の入社試験で
「顔の肌をすっかり綺麗にしたら、また面接試験を受けさせてあげる」とはっきり言われている。
だから私はテロ遭遇前の時点で、日本にまた戻って皮膚科に通おうと決めていた。ピーリングやレーザーを受けようと考えていたのだ。
(↑添乗員さんにもらった日本の女性誌に、日本の皮膚科のレベルは凄いという記事がいろいろ載っており、それでピーリングやらレーザーのことも知った)
もろもろタイミングが重なった。
もともと留学資金を稼ぐために始めたアルバイト感覚の仕事だった上、エジプト人のガイドたちに嫌がらせを受けながら続けるような仕事でもないな、と思っていた。
やはりエジプト人とご結婚されて、エジプトに根付いた生活のマダムたちがやる仕事じゃないかなというふうには前々から感じてはいた。
「テロにも遭遇してすっかり怖くなったし、日本に戻ってちょっと皮膚科に通院もしたいのでこれを機に退職します。
なので11月、12月そして来年の春までぎっしりアサイン済みツアーの仕事は申し訳ないのですが、他のガイドの皆さんに振り当ててください」。
そう言って私は退職届を提出した。
エジプト人上司はびっくりした。そして懸命に私をひきとめた。
彼が必死に私を引き止めるのももっともで、今シーズン(1997年11月~1998年ゴールデンウィーク頃)までは、過去最大の日本人ツアーの本数が見込まれていた。
前シーズン以上に日本人ツアーがどっと押し寄せて来る、だからここで日本人ガイドに抜けられると"イタい"。
ただでさえ、エジプト各旅行会社は、日本でもガイド募集をかけて、わざわざ日本からも観光ガイドの候補者たちを次々に呼び寄せているほどだった。
「辞めるにしろ、今シーズン稼いでからに辞めるべきだ。ガンガン稼げるのを分かっていて、その直前に抜けるのはあまりにももったいないよ。
Lolo、君に"いいツアー"を優先して回してやるから、今シーズンは残って欲しい」。
(↑ちなみに"いいツアー"とはバザールでたくさん買い物をする農○、LO○K、パッ○などのツアーのこと。
間違ってもハードスケジュールなだけで全然買い物をしなく、いいホテルも使わないユー○シアのツアーなどではない...)
しかし私はもう頑固と決めていたので、どんな説得にされても考えを曲げなかった。
ついにエジプト人上司も諦めて、未払い分のギャラを全額耳を揃えて一括で渡してくれた。
ちなみにいつもは給料(ギャラ)を受け取りに行くと、その上司は隠れ回るものだったが、今回は私が「絶対逃さないぞ」の強い態度だったので、ちゃんとお金を渡して貰えた。
しかもこれからごっそり稼げるのが分かっていた直前だったし。
ここの時点(1997年9月)で、未払い分全てください、と請求した私は全額受け取れた。
が、「まだ後でいいや」とのらりくらりしていた、他のガイドはその後、誰ひとり未払い分給料全て貰えないことになる。
日本人ガイドの仲間たちも私を止めた。
「もの凄く稼げるシーズンになるのに、なんで今辞めるの。馬鹿じゃないの」。
誰もがそう言ったが、テロの現場に居合わせ一部始終全てを目の当たりにした、という恐ろしい経験の説明もうまく伝わらなかった。
一番共感してくれたのは、プラハの春(1968)を経験しているチェコ人とハンガリー動乱(1956)の経験があるハンガリー人、そして(第一次)湾岸戦争の前線に行ったことのある米軍兵士ら、あとボスニア難民兵だった。
(↑こういう人々ともパブやホテルロビーで知り合った。カイロは同じ外国人同士というだけで、口を利いたり親しくなることが普通の街だった。)
そうして私は一ヶ月だけ日本に戻った。(ちなみにもともと年に一回は帰国していました)
日本にいる間もやはり新聞でエジプトのニュースはチェックをしていた。なぜならとても気になっていることがあった。
それは
「年内にもう一回大きなテロが計画されている」
という"噂"を耳にしていたことだった。
某エジプト人ガイドのお兄さんが機密情報諜報員でそこからその話が漏れ伝わった、
またはギザのピラミッド病院がテロリストの巣になっており、そこで彼らが計画を練っているのを看護士のひとりがたまたま耳にしてしまった...
そんな噂がまことしやかに流れていた。
ただ、それまでもこの類いの噂はしょっちゅうあった。だけど、ほとんどが"ガセネタ"だった。
よって今回も眉唾なのだが、ルクソールのクルナ村のオッサンもどこか意味深な態度だったことが私は気になっていた...
つづく
おまけ
帰国するのに、カイロからバルカンエアーでソフィア(ブルガリア)に飛び、そこから今度はロンドンへ。
ロンドンで数日間遊んでから、東京に戻りました。
↓この写真はカイロからソフィアへ飛んだ飛行機の機内。はい、座席のない国際航空でした。
搭乗券は手でちぎった画用紙に手書き。(←余談ですが、私がカイロで開設したアラブ銀行口座の貯金カードも"画用紙"の手書きでした。
利子はめちゃくちゃ良かったですが、預けたお金を返してもらえるのか、不安でたまらなかったなあ)
写真の後ろの荷物は私の手荷物。しょっちゅう揺れて動いていました。
ちなみに乗客は私を入れて全員で五名で、ブルガリア人老夫婦二人と、ドイツ人夫婦二人そして私。
CAは太ったブルガリア人のおばちゃんでブルガリア語とロシア語しか話しませんでした。操縦士二人もおじいさんでした。
自動操縦中は、コクピットを離れて私たちのところにやって来て一緒に紙コップの紅茶を飲んでいました。アットホームでほのぼのだけど、コクピットにいろよ、とハラハラでした!
機内食のパンは手に取るだけでぽろぽろ崩れました。
カイロ国際空港を離陸したのは、深夜2時頃。でも2時間ぐらい遅れました。
なぜなら、整備士が首を傾げながら懐中電灯で機体をいじり回しており、なかなか飛べなかった。
もう不安で不安でたまらず、乗客五人全員で「どうする?やばいよね、降りる?」と真剣に討論しました。まさに心は一つだった..
ソフィア国際空港に到着すると、毛皮を着た軍人たちが大きな機関銃を抱えて空港内あちこちに立っており、免税店も全然なかった。
空港の放送アナウンスも英語よりロシア語優先でした。
ブルガリアも思い出がいろいろあるのですが、まさかユーロ圏に入るとはネェ...
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