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カイロのレトロな百貨店の買い物袋の中は、"報復"


1997年6月30日-

香港返還セレモニーを見たいがために、マリオットホテルカイロの日本人会にタクシーで足を運んだ。

日本人会には、衛星チャンネルが映るテレビがあった。受付(エジプト人とご結婚されている日本人マダム)に声をかければ、自由にそのテレビを見ることができた。

BBCチャンネルをつけると、やっているやっている。香港からの中継が放送されている。

ちなみに、エジプトの地上ニュース放送では、"香港返還"新聞記事をただ読み上げて、紹介しているだけだった。


香港返還中継番組は長かった。

全然終わりそうにはないので、途中でテレビを消し、マリオットを出て日本人の岡本秀樹さん (※『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』小倉孝保著)  が経営するサニースーパーで買い物をし、そしてタクシーで帰った。


「サラーム、loloさん」

フラットの入口で、上のフロアに住むシリア人のウダイさん(仮名)が、陽気に声をかけてきた。

見た目年齢40くらいの、ひょうひょうとした風貌のウダイさん。仕事は何をしているのか不明だったが、実業家だとか貿易商だという噂はあった。


エジプトでは、シリア人は下に見られることが多く(←びっくり!)、ウダイさんもエジプトでいろいろ嫌な目に遭っているらしかったが、私と会えば気さくに挨拶をして、必ず

「コッロタマーム?」 (everything is all right?)

「アウズハーガ?」 (Do you want anything?)

調子はどうだい、何か困ったことはないかい? と聞いてくれた。

ま、これらの質問は、アラブではhow are you?と並ぶ、普通の一通りの礼儀挨拶言葉ではあるのだが、それでも毎回言ってくれるのは、ほっこりする。


ウダイさんには妻子がいて、彼がいつも買い物をしていた。

アラブでは、女性があまり人前に出るのは好ましいと思われておらず、それでカイロのオペラ座の舞台に立つ女性演奏家もたいていが東欧人ばかりで、エジプト人女性演奏家は(当時は)皆無だった。

肉を買いに行くのも野菜を買いに出るのも、普通は夫の役目だった。だから、ウダイさんが、いつも買い物袋を抱えて現れるのには、何も不思議はなかった。

ところが、毎回といっていいほど、彼が持つ買い物袋がオマー・エッフェンディーのデパート袋であることに、私はちょっと疑問を抱いていた。



名優"オマ-"・シェリフに次ぐ、エジプトで最も有名な"オマー"(正確には"オマル")である"オマー"・エフェンディは、エジプトで最古のデパートだった。

オーストリア=ハンガリー帝国の某ユダヤ人が、イギリスとフランスの支配下にあった、1856年のエジプトのカイロで開店した、フランスの建築家による、ネオバロック様式の建物だった。

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(当初は名前が異なり、オマー・エッフェンディーの名になったのは、1920年)


そこの地域一帯を第二のパリの街にすることを目指した、フランスかぶれの*イスマイール副王(ムハンマド・アリ王朝)が力を注いだ、カイロの新しいヨーロッパ地区だ。

(※スーダン含むエジプトは、オスマントルコ帝国の属州だったので、"王"ではなく"副王")


イスマイール副王は、湯水のごとく街作りとスエズ運河建設に巨額のお金を使いまくった。そのせいで、エジプトの財務省をほぼ破産させた。

そのため、国民の怒りを買ったイスマイールは退位と亡命を余儀なくされるのだが、その話はまたとして、

当初は大変シックでエレガントだった、オマー・エッフェンディーは、大勢のヨーロッパ人と、半封建的な地主のパシャのような、金持ちのエジプトのエリートの御用達デパートになった。


しかし1952年のエジプト革命後、会社は1957年に国有化され、オマー・エフェンディは大衆向けのデパートとして「ブランド変更」をされた。

1990年から2000年にかけての経済自由化の動きの中でブルジョアジーが豊かになると、店は顧客に無視され、ますます魅力が薄れていっていた。

というのは、埃が被った商品はどれもこれも時代遅れ。その上高価であり、そもそも従業員の尊大な接客態度は目に余るものがあったからだ。

第一、買いたい商品を見つけると、まずそれをあるレジに延々と並ばせられ、横柄な店員に代金を払う。

そこでレシートを受けとると、今度は商品と引き換えるレジに長々並ばなければならない。

しかし店員が途中でいなくなったり、同僚と雑談に講じたりするため、なかなか商品を手に取れない。いらいらする。

後に、モスクワの旧国営デパートに行った時、買い物スタイルがこのカイロのオマー・エッフェンディーと全く同じで

「これが(旧)社会主義ショッピングスタイルなのか」 と思った。


とにかく、90年代の時点でも、とうに時代遅れの遺物になっていたオマー・エッフェンディーは、全く輝いていなかった。

それなのに、フラットの上の階に住むウダイさんは、いつもオマー・エッフェンディーのデパートの袋を持っていた。

とても不思議だった。

「あんな時代遅れデパートで、何をいつも買っているのだろう」。



フラットの玄関先で挨拶をした後、ウダイさんは私を先にエレベーターに乗せさせてくれた。

身内以外の男女がエレベーターの中で二人っきりになることは絶対ないため、ウダイさんも私と一緒に乗り合わせないよう、配慮してくれていた。



砂漠の団体を引き揚げた後、私はカイロの西岸地区、モハンディシーンに住んた。

カイロにしては緑が多く、なかなかお洒落なマンションや一軒家が並ぶ、閑静な住宅街だった。

この辺りには野犬もあまりいないので、ここでは犬に追いかけらることはなかった。

物乞いの女性や子供の姿も見かけなかった。物乞いはむしろ、外国人住居者が多いザマレック地区や、観光客の多いタハリール広場での方が多く見かけられた。


新しいフラットは悪くなかった。


もちろんエレベーターがぐわんぐわん、突然故障して、中に閉じ込められたり、遊園地の落下系アトラクション、フリーフォール状態になることはあった。

だけども、明るくてモダンなフラットだった。

私の住んだ家はベッドルーム三室に、広いリビング&ダイニングルームだった。バスタブもちゃんとあった。キッチンはやっぱりプロパンガスだった。

家賃は1000ポンド~1500ポンド(当時のレートで、約3万円~4万5千円)だった。

普通は、日本人がこのランクのマンションを借りると、間違いなく10万円近くはふっかけられる。

しかし、私もエジプトの住んでもう長い。"コツ"をすでに分かっており、契約書を交わすぎりぎりまでは、(鴨がネギを背負う)日本人の自分は大家に姿を見せない。

もともとここの部屋にはヨルダン人の退役軍人が住んでいた。彼はアラブ人で交渉もうまいので、1000~1500ポンドで借りられていた。

しかし国に帰ることになった。そのことを人づてに聞いた私は、このヨルダン人退役軍人にお願いし

「自分の後任がこのままこの部屋に住む」

と言ってもらった。

エジプト人大家は、"後任"も当然、(あまりお金のない)ヨルダン人だと思った。だから家賃が同じ金額のままの、賃貸契約書を用意した。

そしていざ契約を交わす時に、日本人の私が初めて現れた。あの時の、エジプト人大家の悔しそうな顔といったら! 

「ああ、しまった。やられた! 一気に値上げすればよかった!」というのがそのまんま、顔に表れていた。笑


でも、いい物件だったとはいえ、細かい欠点はいっぱいあった。

まず、備付け洗濯機は、全然"回らな"かったこと。そう、洗濯機のくせに回らないのだ。(ついでをいえば、エジプトのセロハンテープのくせにくっつかないとか、テレビのくせに映らないとかもあった)

エジプトにいると、洗濯機までとろとろしているのか、かったるそうにガタッ、数秒置いてまたガタガタ、そして一休止してガッタン...

こんな調子なので、汚れなんて落ちるわけがない。だから家で洗濯する時は、ほとんど手洗いだった。

洗濯用の固形石鹸で、洗濯板でゴシゴシ洗ったが、まあ服が破れるのが早いことよ..

毛布はバスタブにお湯を溜めて、そこに浸けて足で踏み踏みして、洗っていた。

クリーニング店も存在していたが、ヒルトンのクリーニングに出してもちっとも綺麗にならなかったし、出来上がりは遅いかもしくは預けた服を盗まれることもあった。


一番困ったのは、この地区も停電が頻発したのと(特に真夏。みんなが冷房を使うから)、そして"ゴキブリ"だった。

百年は経っているんじゃないか、というフランステイストの建物だったので、全体にゴキブリだらけだった。

もともと、エジプト人はゴミをぽいぽいその辺に投げ捨てる人々で、衛生面での"感覚"があまりにも違う。

とは言え、家の中はどこも大変掃除が行き届き、綺麗だった。これはつまり、自分の家だけは綺麗にしたい、でも公共の場所はどうでもいい..

だから窓からゴミを投げ捨てるのは当たり前だったし、玄関ドアの外に、バワーブ(番人)が回収するゴミを出すのだが、どれも出し方がめちゃくちゃ。

ゴミの仕分けなんぞされていないのは当然だが、袋からゴミが飛び出しているとか、袋の穴があいているというのも当たり前だった。

となると、ゴキブリが増えるのは道理だ。

ひとり暮らしの私は、ほとんど自分で料理をしていなかった。(テイクアウトばかりだった)

それなのに、まあ出るわ出るわ、ゴキブリが!!


しかもエジプトのゴキブリは"巨大"だった。東京で見かける、標準的なゴキブリの三倍ぐらいの大きさだ。

それだけじゃない。逃げないのだ。パッと夜中に電気を付けると、奥ゆかしい日本のゴキブリはササッと姿を消す。

ところが、エジプトのゴキブリは威風堂々としている。人間を無視。

日本のゴキブリコンバットのおかげで、だいぶん減ったものの、それでも消滅しない。しぶとい。

日本のゴキブリ退治スプレーをシュッとやろうとするものなら、ゴキブリもムカつくらしく、素早く飛んで、こっちに刃向かってくる。

このように、もう負けん気の強い巨大ゴキブリほど、怖いことはない。

巨大なゴキブリが出る度に思い出されたのが、昔テレ東で何度も再放送していた『巨大蟻の帝国』。

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さすがに、もうまいちゃって巨大アリが出るたびに、バワーブ(管理人)を呼んで、退治をしてもらっていた。(シャベルで叩き潰していました...)

バワーブは不思議そうだった。どうして巨大ゴキブリが怖いのか、自分で殺せないのか、ちっとも分からないようだった。

そういえば前回、フラットの向かいのケーキ屋で毎日ケーキを買って食べていた、と書いた。後で思えばあのオシャレなケーキ屋も、巨大ゴキブリだらけだったんだろう...



マリオットの日本人会のテレビで、香港返還中継番組を見た後、家に戻り仮眠した。エジプトもシエスタの国だから、一日に二回寝るのは普通だった。

夜、起きると(砂で黄色い)シャワーを浴び、出かける支度をした。これから、マリオットのハリーズパブで、アラビア語クラスの一同と飲むことになっていた。

どれだけマリオット好きなんだ、という感じなんだが、①他に特に行くところがない ②とにかく行くところがない街 ③ここのホテルが一番くつろげた。例えるなら、地域の公民館の感じだった。


ドイツのビールが飲めるイングリッシュパブ(←ツッコミどこ) のハリーズパブに入ると、カウンター上(確か)のテレビでCNNを流していた。やっぱりで香港返還セレモニー特集だった。

ハリーズパブに現れるようなエジプト人は、外国渡航や留学経験もある、特権階級の若者ばかりだった。

肩のデコルテを出したピチシャツ姿で、ビールを飲みながら流暢な英語で雑談に花を咲かせる、エジプト人の女の子集団の姿も見られた。

色白な彼女たちの先祖は聞けばたいてい、トルコ系だった。正確にはオスマン・トルコ帝国系で、その地域の範囲は恐ろしく広く、"上"はブカレスト、ベオグラードまでいく。


ここにいるラグジュアリーなエジプト人若者たちは、香港返還なんぞ全く興味がないようで、誰もテレビの画面を見ていなかった。

ところがかたや、イギリス人はそうではなかった。

この時、アラビア語クラスメートの、ゲイのイギリス人ダニエルは始終うなだれていた。

なんと驚いたことに、香港返還を悲しんでいるのだ。香港に行ったこともないくせに、ショックを受けている。


これは非常に興味深いのだが、おそらく彼もイギリスに住んでいれば、香港返還報道にそんなに過剰に反応せず、センチメンタルになることもなかったんじゃないか、と思う。

ところが、ダニエルは長いことエジプトに住んでいる。他のイギリス人もフランス人も同様だったが、

エジプト国内に節々に残る、絶大なる栄光を誇っていた、イギリスフランスの実質上統治時代の痕跡に触れているうちに、感覚がおかしくなっていくのだと思う。

実際、エジプトに住むルーマニア人、ブルガリア人、アルメニア人などに出身地を聞くと、みんな

「オスマン・トルコ empire」

と答えた。それぞれ国にいた時は絶対、オスマントルコ帝国だなんて意識していなかったくせに、エジプトにいるとなんだか懐古主義的になって、時代の感覚がぶれていくのだ...


ところで、この香港返還の約二ヶ月後に、ダイアナ公妃は事故で命を落とした。

さんざんイギリス王室の悪口を言っていたくせに、ダニエルはショックを受けすぎて、アラビア語クラスに出て来れなかったほどだった。

そして、この香港返還(エジプト人から見れば、国が香港をイギリスから取り戻したイコール素晴らしい、と..) と、

ドディがモスリムのエジプト人だったから、ダイアナは彼と共にクリスチャン(イギリス王室)に暗殺された、という"噂"は、

エジプトの"政府転覆運動"連盟、つまり短縮的に言うと"テロリストグループ"に大きい刺激を与えてしまっていた。

(追記: ダイアナの最後の恋人と言われたドディもトルコ系エジプト人です)



タクシーでフラットに戻ると、入口のところでまたウダイさんにばったり遭遇した。

「あら、よく会いますね!」

私が言うと、ウダイさんは人の好さそうな笑顔を見せ、

「アルハムドリッラー」 神のおかげで、と答えた。

そしてまた

「調子はどうだい? 困っていることはないかい?」

と聞いてくれ、そしてサッとエレベーターのボタンを押し、「プリーズ」といつものように先に私を乗せさせてくれた。

「ショックランゲジーラ」

お礼をいい、私が先にエレベーターにひとりで乗り、そのエレベーターの扉の窓の部分から、ニコニコしてこっちを見ているウダイさんに私は笑顔を返した。その時、ふと思った。

「またオマー・エッフェンディーのデパート袋を持っている。一日に二回もあの冴えないデパートに行ったのかな」。


ウダイさん一家の住む部屋に、大勢の警官隊が押しかけウダイさん逮捕したのは、その2,3ヶ月後のことだった。同じ建物の他の住人も私も一切、それぞれの部屋から出なかった。

突然、ある一市民の家に警官隊が大勢突入し、いきなり逮捕。ちょいちょい、こういうことはあった。


さきほど、オマー・エッフェンディーのデパートの話で、私はこう書いた:

"第一、買いたい商品を見つけると、まずそれをあるレジに延々と並ばせられ、横柄な店員に代金を払う。

そこでレシートを受けとると、今度は商品と引き換えるレジに長々並ばなければならない。"

...

ウダイさんはいつもいつもそこのデパートの袋を持っていた。なんとなく初めてぴーんときた。多分、"受け渡し"をしていたんだろうと思う。何を?言われたら、想像で思いつく物らを..


このすぐに、フラットからはウダイさんの奥さんと子どももいなくなった。国に戻ったんじゃないか、と思いたい..


つづく

次:


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