目には目を、歯には歯を④ー全て丸く収まって、マッシャアラー!
「ガイドさん、ガイドさん」
エジプト航空の機内で爆睡する私を揺さぶるおじいさんがいた。あまりにも激しく揺さぶるので、目を覚ますと農○ツアーメンバーのひとりだった。
「さっき行ったとこだがね、なんてところだったかね?」
「アブシンベル神殿です」
「アブ? シンガポールじゃなかったかね?」
「いえ、シンガポールはエジプトから半日旅行は無理なので、今朝私たちが観光したのは、アブシンベルです」。
「ほお、アブシンベル、と」
おじいさんは手に持つ小さなノートにメモをし、自分の席に戻って行った。
ずっと寝不足が続いており、貴重な仮眠だったのに起こされてしまった。
やれやれと思っていると、ルクソール空港に到着。
農○の皆さんは、ちゃかちゃか動きが機敏で速いので、こっちがついていくのに大変だ。さっさと空港の外に出てさっさと観光バスへ。
それを睨んでいるのは、パッ○ツアーの派手女性添乗員。
ずっと旅程が一緒で、泊まるホテルもレストランも同じ、用意された観光バスもランクが全く同じ。そのことに彼女が腹を立てているのは、一目瞭然だった。
私がツアーオペレーションをするなら、絶対に手配内容に差をつけたが(ツアー参加料金の価格が違う/ツアーの謳い文句が違うので、何もかも全て同じ手配だとまずい)、
私はこうしてガイドに借り出されているため、エジプト人のスタッフがツアーオペレーターをやっている。だからこういうことになる。
「こりゃあ、後で日本のパッ○が苦情を出すな」...(ただし、そもそもホテルもレストランも限られていたので、どうしてもどの旅行会社のツアーでも、内容が同じになりがちだった)
バスでカルナック大神殿に到着。
農○ツアーの添乗員(大人しそうな若い男性)が
「皆さん、カルナック宮殿に着きましたよ!」
「いえ、宮殿じゃありません、神殿です。さあ降りましょう」と私。
カルナック大神殿で説明をしていると、おじいさんひとりが手を挙げた。
「はい、何でしょう?」
「神殿ってそもそも何かね?宮殿はなんだ?」
「神殿はそうですね、強いていえば本当は全然違いますが神社、宮殿はお城。金閣寺と大阪城の違いと思ってください」
「じゃあ、そう呼んでくれないと分からないっぺ。カルナック神社って言ってくれや。」
「そうだそうだ」
「...」
「ガイドさん、そんなわけでここは一つ、今後は神殿を神社、と言ってください」添乗員さんは頭をペコペコ。
次はルクソール神殿に到着。
「皆さん、ここがルクソール神..じゃなくてルクソール神社です」。
そう大声で言うと、間が悪いことにパッ○ツアーが通りかかった。私の"ルクソール神社"を聞き、パッ○の皆さん、全員が馬鹿にした顔を...
そのルクソール神社...もとい神殿で私が「紀元前1500年に...」とガイドしていると、
「一昨日からずっと"キゲンゼンキゲンゼン"ばかり言うとるが、キゲンゼンって何だ?」
「キリストの生まれた...」
「キリストって言われてもぴーんと来ないし、もうひっくるめて"大昔"で説明してくれんかね。その方がすっきりするんだ」。
「はぁ...」
また私がナポレオンのエジプト遠征の話をすると、
「ナポレオンと言われても、ナポリタンスパゲティーしか分からないだっぺさ」。
その時だった。近くのモスクのアザーンが響き渡ってきた。
アラーアクバル、アラー...
モスリムの祈り時間を知らせるアナウンスだ。
するとおじいさんひとりが
「竹やー、竿だけー!!」と大声をあげた。
びっくり仰天! 慌てて私はしぃっと合図を送ったが、おじいさんおばあさん、全員大笑い。焦る。全くあまりにも突拍子もなく油断も隙もありゃしない。
ドキドキしていると、またメモおじいさんが私につんつん叩いてきた。
「ガイドさん、もう一回この神社の名前を言ってくれんかね。シンガポール神社だったかな?」。
ルクソール市内のローカルレストランに寄った。ランチだ。
おじいさんおばあさんは大きなテーブルにつくやいなや、その上に梅干しやおしんこのタッパを並べた。
そして次々にエジプト料理が運ばれてくると、(パンにつける)ごまとヨーグルトのペーストには醤油を垂らし、バター炒めのライスには永谷園のふりかけをかけだした。
さらに「給仕さん、お湯をくれんかね?」とインスタント味噌汁の入った紙コップを渡す。
「お湯を持って来てもらったら、1ポンドあげてくださいね」
と私がいうと、おじいさんは
「味噌汁を分けてあげた方が喜ぶんじゃないだろうかね?」
「いや、お金の方が喜ばれます」。
そうこうするうちに、パッ○ツアーが到着。
ウェイターは私たちの農○の隣のテーブルを示し、そちらへ座れと指示。
が、遠目でも分かるが、派手女性添乗員は眉間にシワを寄せ、はっきり首を横に振り、2階を指差し何か言っている。
レストラン側としては、日本人の団体客を固めたかったんだろうが、彼女は農○ツアーの真横のテーブルに自分たちが通されるのが嫌なのだろう。
旅行会社のレストランアシスタント君も出てきて、「まあまあ」となだめているのも見てとれた。でも、結局2階へパッ○ツアーは上がって行った。
ところがしばらくすると、上からバタバタ、そのパッ○のお客さんが次々に階段を駆け降りてくる。みんな、一階トイレに走って行っていた。
ははん、と私はすぐに分かった。
「みんなお腹をくだしたんだな。最初からトイレのある一階で食事すればよかったのに、いちいち階段を上ったり降りたり大変だなあ」。
その時、ふと気づいた。
そういえば、農○のお客さんは誰もお腹を壊していない-。
私が担当した今までのツアーは、"必ず"お腹をやられるお客さんが続出した。ところが農○ツアーでは、誰ひとりダウンせずぴんぴんしている。
第一、思い起こせばカイロを出発するときも、朝5時にホテルロビー集合だったのだが、びっくりしたのはそれを発表しても、誰ひとりびくともしなかった。
そして普通は寝坊し集合に遅れるお客さんが1,2人は必ずいるものなのに、農○ツアーでは遅刻皆無。
しかも30分前の朝4時半にはロビーに全員集まっていた。むしろ一番ビリだったのは、ガイドの私...さすが農○。朝に強い。
午後はルクソール西岸へ移動した。
当時はフェリーで岸を渡り、向こう岸で待っている別の観光バスに乗車。
そして、まずメムノンの巨象の前にバスで到着。
「さあ着きましたよ、降りましょう」。
だけど誰も降りない。
「どうされたんですか」
「バスの窓から見えているからさあ、もういいわ。それより"石"ばかりで飽きたわ。石以外ないのかね?」。
石しかないという、まさかのクレーム。
後で添乗員さんに聞いたところによると、皆さん旅行の積立金で参加し、言われたところに旅行しているだけなので、別にエジプトを希望しエジプトに来たわけではないらしかった。
「それよりか、ガイドさん、あっちに連れて行ってくれんかね?」
とおばあさんが指をさしたのは、向こうの方に見えていた畑だった。ルクソール西岸には砂糖きび畑が広がっている。
そういえば、カイロでも20km先のサッカラに向かった時も、おじいさんおばあさんはサッカラで階段ピラミッドには一切興味がなく、道中の畑ばかりに関心を抱いていた。
「ほお、水牛を使っとる!」
「水車だ、あ、井戸だ!」
「あ、あんな農耕器具!」
「へえ、手作業かい!」
...
「分かりました、でも閉まる時間があるので先に王家の谷へ行きましょう。帰りに"添乗員から"ドライバーさんに多めのチップを払ってもらって、畑を通って戻りましょう。それでいいですね?」
全員、しっかり頷いた。
そして王家の谷へ向かい、ここで私の投稿記事、"目には目を、歯には歯を①"の冒頭に繋がる。
ラムセス六世の王墓の中で、壁画『最後の審判』をガイドしていると、ドイツ語ガイドのヒシャームが現れ、農○ツアーの皆さんをしっし、手で払い、壁画真ん前を横取りした。
農○の皆さんも大人しく、言うがままに場所を譲ってしまった。日本人はこういうところがある。
ところが...
ところが、ヒシャームがフンッと鼻を鳴らし、ドイツ語ガイドを始めるやいなや、農フードおばあさんが突然声をあげた。
「おい、土人!」。
土人!?
まさかの土人呼ばわりに、私はひっくり返りそうになった。
これまた気のせいですかね、墓の壁画の顔の目が一斉におばあさんを見た気がした。
↑"土人"にびっくりした壁画の皆さんが、一斉にこっちを見た"錯覚"がしました... (『王家の紋章 第二話』より)
「土人、横取りはダメだ!横取りはダメだ!」
むろん、日本語しかも難易度の高い方言での発言だったが、"土人"ははっきり聞き取れた。
不幸中の幸いは、そこにパッ○のようなインテリな他の日本人グループがいなかったこと、そしてヒシャームが日本語を知らないドイツ語ガイドで良かった...
ほかのおじいさんおばあさんも一斉に
「土人め、横入りするな、土人め、出て行け!」の合唱コールをし始めた。
自分に向かって何か文句を言われているのは、ヒシャームも分かったようだった。が、無視してドイツ語でガイドを継続。
すると、ドイツ人ツアーエスコート(添乗員)のおじさんが、「待った」。
「明らかにこちらが悪い。さあ、私たちは出て行こう」。
ヒシャームは何か言おうとした。しかしドイツ人おじさんは
「墓は60以上あるんだろ? 他の墓でいいじゃないか。さあ、行こう」と言い、
私たちには「すまなかった」と英語で謝り、グループを連れて出て行った。
「やれやれ、土人はいなくなった、これで大丈夫だ。さあ、ガイドさん、説明を再開してくれ」
おじいさんのひとりはそう言い、リュックサックから柿ピーを取りだし、私を見ながら食べ出した。(くどいですが、ファラオの墓の中、バワーブ(墓守り)ももう黙っていました...)
ちなみに、ライセンスガイドのエジプト人のオッサンは、王家の谷の休憩所(屋根があって長椅子がいくつもある所)で茶を飲んでいた。
エジプト人ガイドとトラブった時のために、ちゃんと離れずついて来い、墓の中も一緒にいろと言っても、全然聞いてくれやしない。
「やはり、勤勉かつ凄腕のライセンスガイドと組まないと駄目だな」と私。
フェリーで東岸に戻ると、規定どおり、バザール(土産屋)に立ち寄った。
質実剛健にしか見えない農家のおじいさんおばあさんが、ゴールドなど買うとは思えなかったが、とりあえず寄らねばならないことになっているので、バザール前にバスをつけた。
ドアを開けて入店すると、中にいるエジプト人店員たちは昼寝をしていた。レジのところでうつぶせになったり、体操座りをして寝ていた。
ドアの開く物音で全員目覚めたが、私の顔を見るやいなや
「なーんだ、いつも"ショボい"グループしか連れてこないドクトーラか」
と露骨にがっかりした表情を見せた。
農○ツアーのおじいさん一人は、「しっこ、しっこ」と、ズボンのチャックを先に開けてトイレへ猛ダッシュ。
もうひとりは、店員ひとりに声をかけ
「すまないが、お湯をくれんかね」と日本語で話しかけて、水筒を渡した。またもやインスタント味噌汁だ。
さらにおばあさんたちは店の床の端っこに円陣で座りこみ、リュックサックから今度は塩昆布を取り出し、チュパチュパ吸い出した。
私が、キャッシャーの所に座り、(旅行会社に渡される書類に)"とりあえずちゃんと寄りました" のサインを書いていると、例の"シンガポール"メモおじいさんが、つんつん私の肩をつっついてきた。
「何でしょう。この店の名前はルクソールバザールですよ、シンガポールバザールではありませんからね」。
「ああ、ありがとう。シンガポール (!) バザールね、と」
おじいさんはペンでノートにそう書く。そして続けてこう言った。
「ところで、おらぁたちはよ、もうあちこち海外旅行しているからよう知っているんじゃが、おらたちがこういう店で買い物すれば、ガイドさん、あんたは儲かるんだろ?
あんた、なかなか頑張っとるから、買って協力してやるっぺ」。
そして振り返り、仲間全員に声をかけた。
「おーい、みんな。買うぞ」。
ここから"伝説"が始まった。
なんと、「おーい、みんな、買うぞ」の掛け声と共になんと...各自百万円以上の"爆買い"が始まったのだ。
(バブルはとうに崩壊していますが、まだバブルの余韻の残っている時代でした)
皆さん、一斉に塩昆布を舐めるのも味噌汁をすするのもストップし、それぞれのリュックサックから万札の札束を出し始めた。
ひぇー、リュックサックには梅干しだけじゃなく、数百万の札束も入っていたのか!
よく写真撮影するたびに、その辺にリュックサックを放置していたものだ...(全員、現金主義でカード払いはひとりもいませんでした)
レジはパニック、どえらいことになった。日本円札束が山積みで、レジに収まらない。
慌てて飛んで来たオーナーは、目を飛び出さんばかりに驚愕。そしてアラーに礼を言い出した。(農○添乗員さんに礼を言うべきだ、と私は思ったけど)
農○ツアー爆買いは、カイロ(正確にはギザ)の絨毯屋に寄った時も起きた。
数百万の絨毯がぽんぽん売れていく。しかもやっぱりオール現金。
だけどおじいさんおばあさんたちは馬鹿にするように、
「しかし、どの絨毯も安いっぺなあ。トルコの絨毯屋は数千万したけど、なんだあ。エジプトの絨毯は"たった"数百万円しかしねえんだな」。
驚きのあまり、ぱっと添乗員さんに目をやった。私が口をぱくぱくさせると、添乗員さんはニコニコ。
「フランスツアーの時の絵画買いまくりの方がすごかったですよ。でも待てよ、一番すごかったのは、ブラジルツアーの宝石爆買いだったなあ」。
ハンハリーリ市場では
「ガイドさん、クレオパトラの頭蓋骨を10万円で買うたんだが、田中さんも鈴木さんもクレオパトラの頭蓋骨を買うたというんだ。クレオパトラの頭蓋骨は一体何個あるのかねぇ?」。
最後の夜は、ナイル川ディナークルーズ船だったが、遠回しに"ドレコード"のことをお願いしておいたのだが、やっぱりジャージとゴム長ぐつに、農用ハットにもんぺだった。
でもよおくみると、おばあさんたち、赤い口紅を塗っていた...
酔った味噌汁おじいさんは、アラブ音楽に合わせ、阿波踊りを踊り、かつベリーダンサーの胸をわしづかみ! ギャッ (あとで私がベリーダンサーに平謝りしました)
また!シンガポールおじいさんなどは、欧州人グループのテーブルにわざわざ出向き、自分の"小指"を見せてニヤッ。
何を言い出すかと思えば
「ジャパニーズサイズ」。
ディナークルーズ船を終えて、マリオットホテルに戻ると、おじいさんたちは、「おしっこ、しっこ」とわめき、ロビーの真ん中でズボンのチャックを開ける。
(なぜトイレに入ってから、チャックを開けないんのか、その理由は最後まで分からなかった)
ツアー後、皆さんのアンケート用紙を見ると、意外にもオール「満足」で、ほうっと胸を撫で下ろしたが、予想とおり、ひとりだけは
「大変楽しい""シンガポール"旅行でした」と書いていた...
(ちなみにシンガポール航空で、シンガポールを経由して飛んできたせいだとは思われます)
「うちのツアーはloloさんのガイドでお願いします」
と農○ツアーの添乗員さんが仰ってくださったので、その後できる限り私が農○ツアー専属になった。
農○ツアーは、毎回全てのバザールで"爆買い"をした。
だから、そのうち全ての土産屋では、オーナーが直立不動で農○一行様の登場を待つようになった。
しかもどこをどう伝わったのか、どのバザールのオーナーも
「ヒャクショウ(百姓)サン、ヨウコソ、ウェルカム」
と日本語で言ってくる。
百姓!
ため息だ。またおかしい日本語ガイドから、変な日本語を教えられたな。
農○ツアーの買いっぷりがあまりにも豪快なので、そのマージン狙いで、大勢のライセンスガイド(ちなみに別名はサイレントガイド、ついて来るだけで何もしないから..)たちが、私に擦り寄って来た。
ここで初めて、アブシンベル神殿のガイド、ムスタファに教えてもらっていた、顔が利くライセンスガイドたちを指名できるようになった。
「ドクトーラよ、いいかい。ルクソールではハッジと組め。
(※ちなみにハッジとはメッカに巡礼した者、の意味でハッジはとても尊敬されます)
ルクソールのあのハッジは○○観光大臣の親戚かつマフィアだ。
エジプト人ガイドなら、みんなそのことを知っているので、誰もハッジに逆らわないし、ハッジとコンビを組んだ日本人ガイドにちょっかいを出さない。
アレキサンドリアでは市長の甥っ子で、○○貿易会社の御曹司のアミールだ。(アミールは"王子"の意味)。
そしてカイロでは、イスラームだ。(イスラームはイスラム教のイスラーム)奴の父親は権威あるイマーム(お坊さん)だが、息子のイスラームはカイロのマフィアだ。
ハッジ、アミール、イスラームだぞ。
なんで彼らがガイドをしているかって?
へんっ。そりゃあ自分の縄張りの見張りを兼ねているのさ。しかも日本人金持ちツアーにくっついて行くだけで、大金が入るだろ。
そりゃあガイドをやるさ。とにかくこの三人を付ければ、一生ドクトーラはエジプトで安泰だ」。
「おい、またお前か。目障りなんだよ、さっさとどけよ」。
ルクソール博物館で、私がある展示品の前でガイドをしてると、
ドイツ人集団を引き連れ現れた、ヒシャームがまたやって来た。博物館なのだから、周りにいっぱい説明すべき物が展示されている。それなのに..
ヒシャームはいつものように、体当たりで私を押し退けようとした。
その時だ。
「ハッジ!!」
私が叫んだ。
ルクソールの街で一番のマフィア、ハッジがぬくっと登場。
するとヒシャームはハッジの顔を見て、ギョッとした。
「青年よ、わしの通訳に文句でもあるのかね? 」
「...」
「ドクトーラはわしのガイドの通訳をしていただけだ、お前さんも見ていたと思うが、違うかね?」
「え、その、あの...」
「ところでお前さんの旅行会社の社長は、わしの遠縁の者じゃ。名前はモハンマド・ハッサンだが、お前さんも自分の会社の社長の名前ぐらいは知っているじゃろ?
来週、カイロでモハンマド・ハッサンに会うじゃが、お前さんがどんなに素晴らしいガイドで、わしの"通訳"にもどれだけ親切でいてくれているか、話しておこうかないか、ワハハ」。
「...」
「まだ何かあるかね?そうそう、もしこのルクソールの街で何か困ったことがあれば、わしに言いなさい。わしはルクソールの人間全員を知っているからのう。ワハハ」。
ヒシャームはハハア!と平伏し、ドイツ人グループを別の展示品の方へ連れて行った。
退散する奴の背中を見ながら、
「目には目を、歯には歯を (「出エジプト記21 章24 節」)
目には歯を、歯には牙を ( 「戦エジプト記 lolo章」)」と思った。
そしてハッジに礼を述べると、次に寄るバザールのことで頭が一杯の彼は、満面の笑顔で
「masha allahマシャアッラー」。
意味は、 ‘(this is) what God wills’(神の思し召しのおかげで)。
それ以降、ヒシャームをはじめ、エジプト人ガイドの嫌がらせが私のに一切入らなくなったのも、
エジプト留学継続の資金もどうにかなったのもすべて農○ツアーのおかげです。
将来、遺言書にも、
「うちの家系は末代まで農○ツアーに逆らうな」と書いておこう、と真剣に考えています。
農○さん、マッシャアラー!
おわり
追伸
日本の添乗員さんだけマージンが入らない(日本の旅行会社がどこもごっそり取っていく、酷い)のは、おかしいと思い、必ず同じだけ添乗員さんも貰えるよう、私はやっていました。
ヒシャームですが、1997年にドイツ人観光グループ襲撃事件の時、たまたまそこに居合わせた私の命を助けてくれました。
そしてその後、私を自宅に招き、奥さんと子供にも会わせてくれました。(第二夫人には"リクルート"されていません。もっとふくよかな女性がお好みだそうで...)
しかしドイツ人襲撃事件で、一切仕事を失った彼は湾岸諸国に出稼ぎに行き、初めて異国の地で働く外国人の気持ちをわかってくれたようでした。
数年後、エジプトに帰国。全然旅行業とは無関係の会社を立ち上げました。
また、農○さんの、とあるご夫婦とは、その後もやり取りが続きました。日本帰国後、私はその農家からお米の定期便もお願いしていました。東京のスーパーでは出回らない、美味しいいいお米でした。
2011年東日本大震災では、避難所に連れていけないという、そのご夫婦のペットだった猫を、私自身が引き取りました。2014年に17歳で亡くなるまで面倒をみて可愛がりました。これもマシャアッラー...
↑アブシンベルでも、毎回写真屋のお願いで集合写真を撮って、希望者には販売していました。協力しておけば、やっぱり何かの時、写真屋も助けてくれました。あ、マージンは入っていないです😂 (この集合写真は、農○ツアーではないです)
↑(塾に言われて、本当は18なのに20といって、)塾講師のバイトをしていた時の生徒のお嬢さん二人と、私の英語の家庭教師だった夫人とピアノの先生が来てくれた時。ここも写真屋のために、記念撮影。
↑絨毯は田舎の少女たちが物心つくころから、手で編んでおり、学校にも通えず一日中絨毯を作っています。よって十代前半で目を悪くし、引退することも多いそうです。これを聞いた時はショックでしたね...
もうお亡くなりになった、ルクソールの"最強"ライセンスガイド。農○ツアー(のマージン)を?最も愛した男(笑)。観光地全箇所/警察/軍隊/ホテル/レストランでも、必ずトップがこの人に挨拶していました。
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