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廃寺の巫女婆の不思議な話
四ツ谷の伯母に会いに行って来ました。私の父の兄嫁なので、私とは血縁関係はありません。
「四ツ谷」というのがミソで、大昔に四ツ谷区は新宿区に吸収されているのですが、それを認めたくない伯母は今でも四ツ谷を「新宿区」とは認めず、「自分は四ツ谷区に住んでいる」と言い続けています。東京の人間にしか分からない、微妙なこだわりなのでしょう。
とはいえ、伯母はもともと銀座生まれで、彼女の父親は実業家でした。都会のど真ん中で生まれ育っているので、下北沢がブームの街になっているといわれても全くぴんとこないらしく、
「下北沢って八王子と変わらない田舎なのにねえ」
とキョトン。
実際に下北沢は馬道しかない畑でした。だから伯母がそう言うのも分からないでもありません。
§
かつて伯母夫婦は多角事業をしており、そのうちのひとつが真珠でした。伊勢に自社真珠工場を持ち、銀座のホテル、外国はニューヨークにも店舗を構えていました。
私が高校生ぐらいになると、女友達に
「親戚が真珠やさんをしているの?じゃあ格安で売って」
とずいぶん頼まれるようになりました。
それで、女友達のために伯母にお願いをすると、いつも銀座店舗に出している真珠ネックレスを5割引、、、そう半額で販売してくれました。
でも大人になってから、はっと気づきました。
「あの、今思えば、あんなにも安く売ってくれていて逆に損していたんじゃないのでしょうか?」
すると、なんと。
「とんでもない。5割引きでも利益が沢山あったのよ。むしろたくさんお客さんを連れてきてくれて、Loloちゃんにはお礼をこっちが言わないとねえ」
とニコニコ。
「えっ?あれでもしっかり利益があったのですか?」
びっくりしました。真珠がいかに儲かるか、原価を聞いて唖然とし、それ以降、私は真珠を見る目が変わりました…。真珠は儲かる、、、。
§
ところで伯母には娘がいました。つまり私の従姉です。赤ん坊の時から色白で目がパッチリし、一切だだをこねない、何もワガママをいわない天使のような女の子でした。従姉妹同士とはいえ、器量も性格も全く私とは違いました。
しかしこういう子というのはお迎えが早いのでしょうか。
昨年、凶暴な小型犬に突然襲われ殺された私の犬もやはり品行方正で優しい性格でした。人間も動物も「いい子」は神様に好かれ、呼ばれやすいのかもしれません。
模範的ないい子でおとなしかった私の従姉は、まだ小学生のときに白血病にかかり死にました。
白血病は当時は不治の病でした。昭和50年代の話です。
白血病と最初に発覚した時点で
「あと、2,3週間もつかどうか」
と慶応病院で言われました。
伯母はわらにもすがる思いで、自然療法、霊的治療にも頼ろうとしました。すると、人づてで「相模原の廃寺の巫女お婆さん」のことを聞きました。
相模原に廃寺があり、そこに勝手に住み着いた巫女がいるのだけども、そのお婆さんは非常に魔法のような力を持っており、東京でも知る人ぞ知る有名な巫女なのだといいます。
伯父は私の父を連れてそこへ足を運びました。
すると大勢のお弟子さんがすらりと出迎えに現れ、二人はぎょっ。
しかもです。寺の中はデコデコ何やら飾り付けが派手でいかにも新興宗教の胡散臭さが満載で、その上まず5万円を請求されました。昭和50年代の5万円なので、この金額は非常に高額です。
「30分もしない祈祷で5万円は高い、兄貴、止めたら?」
私の父はひそひそ囁き止めようとしましたが、伯父は
「いや、信じてみる」
しばらくすると、派手な衣装を着た巫女お婆さんがもったいぶってするりするり登場しました。
そして変なお経を唱え始めました。私の父はバカバカしさと滑稽さを感じていましたが、「兄貴」の気持ちも分かるので黙って神妙にしていました。
最後に巫女お婆さんはこう言いました。
「あなたのお嬢さんですが、完治はさせられないし長生きもさせられない。しかし余命1ヶ月以内を宣告されているそうだが、それを一年には延ばすことはできます」
「ではどうすれば一年に延ばせるのですか?」
伯父がそう尋ねると、私の父は「ああお布施や壺を買えとか言ってくるんだろうな、やれやれ」。
ところがです。意外や、巫女お婆さんはこう答えました。
「富士山のそばに◯◯という土地があり、そこの◯◯方向へ向かい◯◯に入ると湧き水がある。それを飲ませなさい」
伯父は狐につままれた思いで、再び弟(私の父)を連れて富士山の方角へ向かいました。
私の父は当時まだ若手サラリーマンで、残業と土日返上勤務は当たり前で忙しくへとへとでした。それなのに、ここまで兄に協力したのは、戦争時代、疎開先でイジメにあった自分を兄が迎えに来てくれ、おんぶされて東京に戻ったことがあった、
某私立学校を受験する時は、当時は「受験番号30番目までは全員合格する」と言われていたので、兄が徹夜でその学校に並び、30版以内の受験票をとってくれたなど、恩がいろいろあったからです。
巫女お婆さんの怪しい手書きの地図を頼りにそこへ到着しました。ちょっとした冒険家の気持ちです。車も入れない水筒と懐中電灯を持ち、人里のいない野里だが山奥の先へ進みました。
「青木ヶ原樹海の湧き水と言われないだけでも良かった」
二人はそんな軽口を叩きながらも、ドキドキ、ゼーゼーハーハーいいながら、草をかき分け歩き続けました。
どのくらいたったでしょうか。兄弟は驚きました。本当にそこに湧き水があったのです。荒れ果てた人もいない奥深い場所でしたが、水があったのです。二人はありったけそれを汲んで、持って帰りました。
それから毎日、娘(私の従姉)にその水を飲ませました。すると本当に余命一ヶ月以内のはずが、一年に延び、そして巫女お婆さんの言ったとおり、きっかり一年目に命を落としました。
§
従姉が死んだ一年後です。
祖母が奇病にかかりました。すべての医者がさじを投げました。原因不明だと。
そこで伯父と父はまた相模原の廃寺の巫女お婆さんのところへ向かいました。今度はこう言われました。
「寒川神社の裏の◯◯へ行くと、湧き水がある。それを汲んで毎日飲ませなさい」
そうして、またもや兄弟で出かけ、寒川神社の裏の◯◯へ行きました。わかりにくい場所でしたが、本当に人知れない湧き水がありました。
祖母はその水を飲みました。そのわずか2日後。あっさりとけろりと元気になり、その後長生きしました。
§
従姉が死んだ2年後。
伯母がある夢をみました。死んだ娘(私の従姉)が大事にしていたアクセサリーが夢に現れたのです。
「忘れていたけれど、あの子が大事にしていた宝物のアクセサリーがそういえばないわ。どこにあるのかしら」
気になりました。気になるととにかく気になる、無性に気になります。そこで再び五万円を用意し、相模原の廃寺の巫女お婆さんを頼ることにしました。
今度は伯母本人もそこへ足を運び、当時まだ幼かった私もなぜか一緒に連れて行かれました。
伯母夫婦と私の父と私が到着し、五万円を先払いすると、巫女お婆さんが派手な衣装で入室。そして念仏のようなものを唱えだしました。
どのくらいしてからでしょう。
「◯◯ちゃんの声だ!」
まだ小さかった私ははっきりそう思ったのを覚えています。死んだ従姉の声が、その巫女お婆さんの口からするのです。
巫女お婆さんの声は最初は普通のお婆さんの声だったのですが、念仏を唱え続けているうちにあどけない無垢な少女の声に変わりました。それがどう聞いても従姉の声瓜二つで、あと話し方や特長、口癖がまさに従姉そのものでした。
「おかあちゃま」
巫女お婆さんがこう口にした時点で、伯母夫婦も私の父も腰をぬかさんばかりに驚きました。
従姉は確かに伯母のことを「お母さん」「ママ」ではなく「おかあちゃま」と呼んでいたのですが、そんなこと巫女お婆さんは知るはずがないのに。
「おかあちゃま、それは◯◯に置いてあるよ」
巫女お婆さんはそう言いました。四ツ谷の家へ戻りやいなや、言われた場所を見ると本当にそこに探していたアクセサリーがあった!
§
あれから半世紀近くたちます。
少し前に、その四ツ谷の伯母の家へ私は久しぶりに訪れました。ちなみに伯父はとっくに肺がんで亡くなり(ヘビースモーカーだった)、伯父の死と同時に真珠会社は倒産しています。
「卒業したら、ニューヨークの真珠店で店員すればいいや」
と就職をあてにして、余裕でいた私は慌てふためいたものですな。
娘を小学生で亡くした伯母はその後、雌犬ばかり引取り、どの犬にもいつも死んだ娘の名前をつけていました。でももう高齢なので、さすがに死んだ娘と同じ名前の犬は飼っていません。
今回、私がお邪魔すると、まず従姉の仏壇に向かい、手土産のお菓子をお供えしました。例のアクセサリーはまだ仏壇に置かれてありました。
それから従姉の部屋に入りました。
その部屋はまだ昔のまま、昭和50年代で時間が止まっているので、本棚には黄ばんだ萩尾望都や昔のマーガレット少女コミックが並び、壁には当時のアイドルスターの色褪せたポスターや水森亜土のイラストが貼られています。
居間に戻ると、私は持ってきたお菓子を伯母と食べました。
ふとテレビをつけCNNを見ると、コロンビア大学などアイビーリーグの大学で勃発しているイスラエル政府への抗議デモや、イランの首都テヘランも映り、中東ニュースを大々的に報じていました。
「そういえば、あの子が死んだ時はイラン革命がやっていたっけ…」
伯母が全く興味なさそうに呟きました。
去年のその日、私の愛犬が見知らぬ犬に襲われ殺されました。その後、今に至るまで謝罪も慰謝料もなく、花束も送られるなど一切なく、逆にこちらを訴える通知を速達で送りつけてこられました。
(多分、先手を打ったつもりなのでしょう。こちらが要求したのは、人として最低限の謝罪の言葉と葬儀代でしたが)
人も動物もですが、魂はどこから来てどこへ向うのでしょう。そして
「お天道様は見ている」
を信じたいものです。