木魚と猫
「...こんにちは。エリザベスカラーですか、これは」
「そうなんです。薬をつけてもすぐに舐め壊してしまうので」
「へえ、こういうのがあるんですね。手作りですか?」
「いえ、ネットで買いました。あ、本日は宜しくお願いいたします」
「よろしく」
◇◇◇◇
憎きコロナの勢いはまだ当分収まらないだろう、とたやすく見当がついてしまった6月のうちに、去年の初盆に参席してもらった親戚一同にはハガキを出しておいた。
『父の三回忌法要は家族のみで執り行うことといたしました。お心遣いは無用に存じます――』
なので今――法要当日である今日――、我が家の座敷に座っているのは、母と私、昨日から帰省している私の姉、そして父の実妹の四人だけである。
こういう時勢だからお斎もないし、一年前のあの右往左往の慌ただしさに比べたら、この静けさと気楽さは、まさしく「極楽」そのものだ。
叔母は一時間前にやってきて、少女時代の思い出話を誰にも遮られることなくたっぷりと私たちに語ったし、買ってきてくれた果物を、すでにいくつかのリンゴや梨を置いてあるお盆の上に美しく飾り足す余裕もあった。数か月前からめっきり足が弱り、家の中でも杖を手ばなせない母は、椅子に腰かけたまま数ミリも動かない。
そんなくつろぎすぎるほどくつろいでいるところに静々とやって来られた、菩提寺の法嗣さんとの最初の会話が、冒頭のやりとりである。
◇◇◇◇
法嗣さんを庭で出迎えたのは我が家の15歳になる雌猫だ。生後3ヶ月で里子に迎え入れ、父が13年の間溺愛した、大切な相棒である。
昔は毎日のようにネズミもモグラもたやすく仕留める狩りの名人だったけれど、この数年でさすがにそれはなくなった。減ってしまった遊びの時間は、そのまま眠りこむ時間に変わった。
ようやく夏の厳しい暑さが鳴りを潜めた近頃は、時おり縁側ではなく庭の芝生の上で、優しくなった太陽の光に体を温めさせている。
◇◇◇◇
昨日のお昼に姉が帰省した。
黒い服を鴨居にぶら下げ、襖を外し、仏壇を拭き、あちこち掃除をする私たちのあとを、彼女は冷静に観察するような顔つきで尻尾を立ててついて歩き、夜遅くまでビールを延々と注ぎ合いながら、二人で父の思い出話に泣いたり笑ったりしていた頃には、もうすべてお見通しのようだった。
私の部屋の床に布団を敷いた姉の足元にうずくまり、朝まで一緒に寝た。
◇◇◇◇
彼女は法嗣さんが来られる一時間以上前から庭に出ていた。そのまま、ゴハンを食べる時間になっても動かない。
やがて叔母が到着し、家の中が賑やかになる。いつもならばそういう場面では必ずそんな「輪」の中心にいようとする彼女が、それでも家の中には入らない。私たちの笑い声や涙声を聞いても動じない(普段ならば必ず足元にやってくる)。
待っているんだな、と確信する。
姉も同じことを言う。
彼女は、これから、大好きだった父のための特別な時間が始まることを、ほぼ完全にわかっている。
◆◆◆◆
毎年人間ドックを受け、6月には膵臓の定期検査も済ませていた父が、ちょっと重度の夏バテだろうかと思いながら病院へ行ったのは2年前の8月15日。
そして手術不可の腹膜播種に至っている末期の胃癌だという診断を家族で聞かされたのが、8月26日のことだった。
9月1日からの1週間、家に一時帰宅した時の父は、まだ見た目は普通の父だった。病室から自分で歩いて私の車まで行けたし、帰りついて、庭で父を待っていた彼女と、しゃがみこんで笑顔で対面した。
約10日のあいだ離れていたからか、消毒液の臭いが気になるのか、再会当初、彼女は警戒したように父と距離をとっていた。けれど夜にはいつものように父の傍を離れなくなった。
思えば幼かった彼女が初めて我が家へ来た日、興味津々で家中を探検し、疲れ果ててパタンと眠りこんだのは、父の膝の上だった。もちろん父はその場でノックアウト。
13年前のあの日からずっと、父の布団で毎晩一緒に眠ってきたのだもの。10日も置き去りにされた彼女の不安も、再会の戸惑いもうれしさも、あの日の私にはわかる気がした。
2日ほど経つと徐々に腹水が溜まり始めた。再び入院するまでの1週間、父はこれまでどおり、彼女と一緒に眠り、起きた。
病気のことなど何も聞かない毛むくじゃらの愛しい娘を布団の中で撫ぜながら、父は何かを告げたのだろうか。私や母には決して言わなかった気持ちも、彼女には伝えたかもしれない。
今となってはそうであれば良かったのに、と思うしかない。
いかんせん猫は秘密主義だから、そう簡単には父との時間を打ち明けてはくれそうにないのだけれど。
◆◆◆◆
9月半ばにはまったく食べられなくなり、ほぼ氷と水だけでなんとか生命をつないでいた。
もう残された時間が僅かしかない父を、なんとか一度家に帰してあげたいと、担当の医師がギリギリの判断をしてくれた結果、9月23日に、結果的に最後となる我が家への外泊が叶ったものの――連れて帰るのには相当の覚悟と勇気が必要だった。
入院から2週間と少し、経っただけなのに、父の身体はもう、本当に細く、脆く、そして重くなっていた。
なんとか私の車から降ろしても、部屋のベッドにたどり着くまでが、信じられないような強行軍だった。小さな母と私に無理やり抱えられて、健康なら数秒で行ける数メートルと2つの段差を超えるのに、休憩をはさんで20分近くもかかった。
息も絶え絶えにベッドに倒れ込んだ父の元へ、間髪入れずに彼女が飛びのってくる。前回のような戸惑いはどこへやら。もう会話も十分ではない父の足の上、枕元。叱っても離れない。
父は「いいんだ、いいんだ」
と、掠れた声でも嬉しそうに彼女を擁護した。その姿にこちらが救われる気分にもなったことを覚えている。
◆◆◆◆
予定していた2つの夜を、どうにか、なんとか、越えた。
けれど、父はその日、病院へ予定通りに戻った午後に、帰らぬ人になった。
◆◆◆◆
遺体が帰って来たその夜、彼女はもう、父に近づこうとはしなかったけれど、代わりに遺影の父をじっと見るようになった。
初盆が終わった際、葬儀社が自宅に片付けに来て、遺影を祭壇から下ろした直後のことだ、彼女は駆け寄って行って父の顔の傍でウロウロした。少し困ったような表情を私に見せて、小声でミャアと泣いた。
帰って来たと思ったのに。
そもそも、なんでいなくなったの。
そう問い詰められたような気がした。
◇◇◇◇
「俱会一処」。
くえいっしょ、と読むのだという。
法要の終わりに頂いた言葉は、知らなかった。
極楽浄土に往生した人は、浄土の仏や菩薩方と会うことができる。
そして私たちがお念仏申せば必ずまた会わせていただけるよう、阿弥陀様が誓い、はたらいてくださるのです。私も、別れた人を想うとき、この言葉を支えにしております。
温かい言葉をもらった叔母は、感涙していた。父と同じく俳句の道を歩んでいる叔母が、作品にこの言葉を昇華させようと挑むのは、想像に難くない。耳がすっかり遠くなった母は、最初から変わらない表情で、黙って仏壇を見つめただ大人しく座っていた。
◇◇◇◇
15歳の彼女は結局、法嗣さんがお帰りなさるまで、ずっと同じ場所から動かなかった。家の中が一番良く見渡せる場所で、彼女は最後まで読経とおりんと木魚の音を聞いていた。
長身の、長い卒塔婆袋を携えた法嗣さんから、目の前で背をかがめて微笑んで見つめられても、落ち着いて目を合わせ、動じる様子もなかった。知らない男性で、近づいてきても彼女が逃げないでいるのは、やはりこのお方だけなのだ。
この二年で数回、彼女は法嗣さんと出会っている。
そのたびに私たち家族が黒い服を着てバタバタと慌ただしく動き回り、普段は見知らぬ人が大勢やってきて、自分は離れの部屋に隔離される。そんな時には必ずこの人の存在を感じる。
朗々とした声とおりんと木魚が厳かに響きわたり、人間も猫の自分も同じ生きものだと諭し、命の話をする。そしてまた、そのたびに必ず大好きな「おじちゃん」の話が出る。「おばちゃん」が、「姉ちゃん」が、泣く、笑う...。
彼女の頭の中にはもちろん、人間の社会通念上の決め事など存在しないだろう。それでも遥かに、本に頼りネットに頼り、型からしか入れないヒトの感性を遥かに楽々と超えて、父の魂と自在に会話を交わし続けているのではなかろうか。ひょっとすると、父が召される前の段階から。
そう考えたら、私は彼女にちょっと嫉妬した。
姉ちゃんもこれだけ頑張ってるんだけどね。
法嗣さんの車を姉と叔母と見送ってから、我が家への坂道を上った。
もう少し叔母と話したい気分だった。
よく晴れた爽やかすぎる秋空。空気は乾いているものの、確かに季節の落ち着きを取り戻した。
庭で待っていた彼女が、これみよがしに大きく背伸びをして私たちを迎えてくれる。ふふ、やっぱり緊張していたんじゃない。
風が瞬間すこし強く吹いて、金木犀が暴力的に香ってきた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?