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大寒だけど羊羹はまだ食べない。

 年末に虎屋の羊羹が届いて、仏前に供えてある。
 小ぶりな箱だがずっしりと重く、白地に赤い文字の包装が端正で麗しくて、我が家のさみしいお正月にも彩りを添えてくれ、ありがたかった。小豆のやさしい舌触りと甘味は、亡き父の好物でもあったから。


 しかし、まだ包みを開けていない。

 正直に言うと、開けられないのだ。

 開けてしまうと劣化が始まる。私と母のふたりでは、到底食べきれない一本ものの羊羹は、さながら我が家にとっての甘い生の「のべ棒」で、その確かな味わいの記憶に舌を濡らしながらも、劣化が恐くて開封せずに置いてある。
 ふつうに食べきれないものと同じような扱いをするのが難しいのも、
虎屋の羊羹の見目麗しき姿ゆえだ。
 たとえばご近所に配るとか。

 父の三回忌もあった去年の内の戴き物である。
 御霊への供物とすぐに察しがつくだろうそれをもらって、周囲の方が素直に喜んでくれるとも思えない。もちろん送ってくださった方に対しても、先祖の霊に対しても、若干のいたたまれなさが残る。

 それに、昔なら羊羹の甘さは間違いなく羨望されるべき贅沢だったと思うけれど、ご近所は皆、糖尿だとか腎臓肝臓に難を抱えていて、心から歓迎されることは残念ながら少なくなってしまった気がする。
 それらをわかっているのに、素知らぬふりでとにかく周囲に配る、というのもなにかイヤで、だから我が家の虎屋の羊羹は、その端正な包装を解かれないままに今日も仏前に供えられ、立ちのぼる線香の煙を纏いつづけている。


 しかし、毎日仏に手を合わせる時に感じるのだ。
 これが供えられた仏壇は、新年らしく清い雰囲気があってとてもいい。
 もはや、我が家に来たこの羊羹は、ここに存在しているだけでもう、
「虎屋の羊羹であることの使命」を全うしているような気がする、と。


 私と母の口に入るのは、果たしていつのことになるだろうか。
 どれだけが口の中に運ばれ、どれだけがむなしく残されるだろう。

 正直に言えば私たちはきっと、いいところふた口めでギブアップに違いない。たとえ自分が少し頑張ってみたところで、このところ何につけても「こらえる」ことの利かなくなった母は、あっさりと「もういらん」というのが目に見えている。昔なら(今でも、だが)滅多に口に入ることのなかった、超高級品の羊羹を、だ!!!!

 考えていくと羊羹に申し訳なくなってくるから、もうしばらくはこのままにしておこう。せっかく優しいひとの想いをのせて、東京からこの田舎の山奥の家に送られてきたのだもの。包みを解かれない間は、半永久的?に美しく、その「役割」を果たしつづけてもらえるに違いないんだから。
 それでいいのかどうかは、かなり疑問ではあるけど。


 先日の雪がようやく解けてきた。
 縁側の窓から畑が見下ろせる。

 ガラス戸を開けると、木々の隙間でさわわと風に揺れ、きらめく光に目を射抜かれた。肌を刺すピリッとした心地良い冷たさが、たちまち部屋に満ちる。
 何日も雪の下で息を殺し、陽射しを待ち焦がれていた取り残した蕪やサニーレタスの葉は息も絶え絶え、生気を失った様子である。反対に、雑草たちは小さくても既に力強い緑の顔を、いくつも幾つも生き生きと、湿った黒い土の表にのぞかせている。年末から二度の大雪に見舞われたが、明日から気温はグングン上昇するらしい。

 一月最後なのかもしれない冴えわたる冷気を、なまりきった身体の隅々にまで思いきり吸い込んだ。ハアッッと声を出しながら、若干芝居のかかった深呼吸を、何度も続けた。

 誰にも、冬の間に蓄えておいた脂肪や、なんとなくの希望や、今はまだ目新しい気のするいろんな想いが自分の内側に静かにあって、それらを使ってさあお前の出来得る限り動くのだ走るのだと季節に促される日々が、目の前まで来ている。


 羊羹は、今年最初の挫折を味わった時に思いっきり食べてやろう、と不意に思う。

 冬の尾っぽが東の昼の高空に白く光っている。

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