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自転する日記 3月24日 田舎の話

3月も後半。世間では年度末で色々慌ただしい時期だな。
私はこの2年ほど、母とふたりで引きこもっているので、その慌ただしさをもろに感じることはなかった。けれども今年は、田舎ならではの地域の行事や役回りがあって少々忙しくなっている。
地区の事務員(回覧板を回したり集金したりお盆の行事の手伝いしたり道路の掃除をしたりとかです)だ、神社のお世話だとあれこれ順番が回って来た。

40代、50代で「若いね~」と本気で言われるようなところ。
何をするにも本当に切実に人は少なくて、一番多い年代は80代で、その方々はそれぞれ足とか腰とかがおぼつかず、でも頭の方は皆さんしっかりしていてかなり厳しい。それゆえか小さな小さな集落なのに、ちょっとしたことであちこちでいがみ合う。昨日も、(そんなに怒らなくても…)とこっちが思うようなところで皆さんが一致団結してシュポシュポなっていたのでびっくりした。
自分はぺーペーなので、卑屈すぎるくらい下に出て、おじいちゃんおばあちゃんの中で頼りなく明るく能天気にふるまう。
そうやって全体のバランスを保てないものかと妙な気をまわしたりしている。

皆、常にどこかの誰かの噂話か悪口を言っている。そしてその組み合わせは猫の目のようにクルクルと変わる。いちいちつきあってどちらかにつくのはアホらしいので、そういう時はしれっとその場から離れていくか、全然違う子供じみた話をいきなり振ったりして場をほぐす。

死んだ父も、家にいる母も、昔から積極的にはそういう話題に加わらなかった。(父がこの土地の生まれではなかったことが大きいとは思うが。)
自分もその血を引いていると思う。
周りが一方向に流れかけた時にはなぜかすっと離れていく癖があるのだ。
皆で強くひとつにまとまることが、昔から怖くて苦手だ。運動会での応援団とかはその最たるものだった。ゆるくつながるのは大好きなんだけど。

でも田舎はそうしてその都度都度で、異論を許さないほどかたくなにまとまることで守ってきたものも確かにあるだろう。それは良い意味でも悪い意味でもだ。
地域の行事なんか見ていると、ここだけの話、もっと合理化して簡素に楽に出来るし、同時にもっとちゃんと出来るじゃないか、と思う部分はたくさんある。
でも、皆さん、大変だ大変だと言いながらも、実はそれを変わらない形で続けることで、この土地で長く暮らしてきた自分たちの歴史を肯定できているのだろうなとも感じる。それを、年代の若い者からの軽めの提案で変えることには、強い抵抗があってあたりまえだとも思う。怒るにはエネルギーがいるとも言うし、それが脳や心の若さを保つのに一役買っているとするならば、もうそれはそれでいいのでは、とも思ったり。

「どうせあと10年もしたら皆いなくなるわ。あとは若い人がするやろ」
などと、冗談にならないことを皆常日頃から口にされる。こっちはそれを言われちゃあ、というところだ。
ので、「若い者」は、粛々と現行に従うだけである。

20代、30代、40代の人たちのリアルな声を聞けるのは、今の私の場合X(旧Twitter)だけだ。
みんな、なんて輝いているんだ。軽く聞こえるかもしれないけれども、忙しい人も悩んでいる人も、はっちゃけている人も、みんな眩しい。細胞がまだ瑞々しく動いている。なんじゃそれは、と思われてもそうなんです。80代の城壁に囲まれて365日生きていると、そう感じるようになるんです。

けっこう無理をして若い人たちの間に押し入っていると感じるこの頃。
本当はもっと年齢を考えて、絡みを控えめにするべきかもしれないんだけど、
何でも近すぎる田舎の人間関係が実は苦手で、
しかし結構ミーハーで精神年齢が未熟なのと、
コピーや、詩や散文や小説や自由律俳句や短歌などなど、
とにかく文字と言葉が好きな性癖?により、
心地よい距離感を心得たキレモノの紳士淑女で煌めくSNSに頼ってしまう、一番中途半端な年頃なのだ。
困ったものだ。皆とリアルに会えてお酒を飲めないのがとてもさみしい。

何を言いたいのかわからなくなってきました。
つまり、本当の昔ながらのムラにいて、日々先輩方に揉まれる孤独な春を迎えています。
ああ九州コピ友の会(だったっけ?)、行きたかったなー。


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