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仕事辞めてロシア留学したら戦争始まって計画パーになった話~モスクワ留学・日本と隔離と戦争と~

・2022年2月25日金曜日 帰国前日

チケットが発券されていないのです

 カタールのドーハ空港にて成田空港行きの飛行機を待っていた私は、日本行きのチケットが手元にないことに気が付いた。一瞬の焦りと「なぜ?」と言う疑問が頭をよぎった。私は記憶の糸を手繰り寄せ、カタールに到着してからを遡って思い出し始める。


飛行機に乗る前、モスクワで一体何をしたのだっただろうか。

ビールを飲んだその前は?


出国手続きをしたその前は?


空港のチェックインカウンターで手荷物を預けた。チケットはこの時に発行されたはずだ。では受け取ったチケットは・・・?

私はカウンターでのやり取りを思い出す。あの時は重量超過料金のやり取りを何度も何度も問答したはずだ。そしてクレジットカードの領収書と一緒にチケットを受け取った。その時は・・・。

 瞬間、シェレメーチェボ空港での記憶が蘇った。モスクワ発ドーハ行きの1枚しか貰っていないことを思い出したのだ。私がモスクワで受取ったチケットはドーハ行きのみだ。そもそも日本行きのチケットは発券されていなかったのである!そもそも貰っていないものが手元にあろうはずもない。私はすぐさまカタール航空のヘルプデスクへと向かった。チケットが発券されていないことを伝えるために・・・。

 カウンターでは一人の男性スタッフが様々な人種の旅行者の対応をしていた。手際が良いのかたった一人の対応であったものの、列はすぐにはけてゆき、私の順番がやってきた。スタッフと相対した時に私は一瞬何と言ったものかと言葉に詰まったが、そのまま正直にありのままの状況を伝えた。

「日本行きのチケットが発券されませんでした。モスクワのシェレメーチェボ空港から乗り継いできたのですが・・・」


英語でそう伝えると「は?」と言いたそうな怪訝な顔を向けられた。マスク越しでもよく分かる表情だった。目は口程に物を言う。「チケットを無くされたのですか?」と聞かれたので、私は改めて同じことを繰り返した。


「チケットが発券されていないのです」


 私は英語は苦手な方ではなかったが、使ったためしのないフレーズであったので果たして正確に伝わっていたのか心配であった。「パスポートを下さい」と言われ、菊花紋の入った赤いパスポートを渡すとやれやれといった具合でスタッフはパスポートを受け取った。やれやれと言いたいのは私の方である。ふと後ろを見ると一人の恰幅の良い白人の女性が列に並んでいた。スタッフは端末を操作しながら「次の方はどうされましたか?」と女性に言った。女性は英語で

「日本行きのチケットが発券されませんでした。モスクワのシェレメーチェボ空港から乗り継いできたのですが・・・」

となんと私と同じことをスタッフに伝えたのであった。それまで半信半疑と言った雰囲気であったスタッフは、どうやらこれは本当らしいぞと表情が引き締まったように思われた。それを聞いた私は思わず吹き出してしまい、女性に顔を向けた。彼女が手に持つ赤いパスポートにはロシア国章の双頭の鷲が描かれていた。

"У меня тоже нет билета, вы тоже из Москвы?"
(私もチケットがありません、あなたもモスクワからですか?)

と私は彼女にロシア語で尋ねる。すると緊張の糸は切れてしまったのか彼女は笑い出し、私もつられて一緒に笑ってしまった。カタール空港の片隅に、日本人とロシア人の奇妙なペアが生まれたのであった。カウンターでいくつかの手続きを経た後、スタッフは我々に日本行きのチケットを発券してくれた。文字通り、日本行きの切符が本当に手に入ったのであった。

 飛行機の出発まで少々時間があったので、私は私と同じ不幸に見舞われた女性としばしの身の上話を楽しんだ。どうやら彼女は日系企業のロシア支部に勤めているとの事で、戦争勃発に伴い会社の指示で日本へと避難をすると言うのであった。お互いに労をねぎらいあっているとやがて搭乗手続きの開始時刻となった。いよいよ日本へと帰る時が来たのであった。時刻は午前0時を回っており、既に新しい一日が始まっていた。


・2022年2月26日土曜日 帰国当日

母国日本へ

 カタール時刻午前1時過ぎ、ドーハ空港発成田空港着QR806便は離陸した。機内には日本人が多く搭乗しており、手刀を切りながら通路を通る人々の姿や漏れ聞こえる日本語に私は母国を感じ、少し早いものの帰国をしたような気分になったのであった。やがて機内食が配られ始め、日本人CAの手により私の座席に温かい食事が配られた。周囲の乗客は涼しい恰好をしている中、真冬の恰好をしている私が珍しかったのか、CAは「どちらからですか?」と私に尋ねた。少しむず痒い気持ちになりながらも「モスクワからです」と答えた。CAは驚き、色々とまくし立てるように質問を浴びせかけてきた。戦争から逃げてきたのか、どれくらいの期間いたのか、現地の様子はどうなのか等々・・・。それでも手はちゃんと動き、自らの仕事をこなしているのは流石と言ったところか。投げられた質問には全て答えたものの、まだまだ聞きたいことがたくさんある!といった風にうずうずとした様子であった彼女は、「後でまたお話を聞かせてください!」と言い残し自らの仕事に戻っていった。私にとって久しぶりの日本語での会話であった。

 機内食を配り終えたCAは果たして本当に私の席の元に戻ってきた。てっきり冗談かと思っていたので少々面食らいはしたものの、私はモスクワでの楽しい思い出や、開戦前後の現地の様子、そして帰国便に乗るまでの苦労をスマホで撮影した写真を交えながら彼女に披露した。ハキハキとした相槌や時折混ぜられる質問は私を饒舌にし、彼女がCAとして或いは聞き手として能力が高いことを示していた。すっかり話し込んでしまったが、彼女も仕事中の身である。機内アナウンスが流れると楽しい会話もお開きとなり、「ゆっくり休んでください」と彼女は私をねぎらい職務へと戻っていった。私はCAから渡された毛布を被り、目を閉じ眠りについた。目が覚めればもう日本は目の前である。私の数奇な留学も終わりが近づいていた。

  日本時間16時50分、QR806便は成田空港に到着した。誰しもが飛行機から降りるべく荷物を纏め始めた。いよいよ留学も本当の終わりを迎えたのであった。名残惜しさがあったわけではないが、私はシートを立ち上がらずに、他の乗客が出るを待った。やがて最後の一人となった私はシートから立ち上がり、ゆっくりと機内を出口に向けて移動する。扉の前では例のCAが乗客を見送っていた。彼女が「お疲れさまでした」と声をかけてくれる。私は「ありがとうございました」と軽く頭を下げ成田空港へと続く扉へと歩み出た。晴れて私は母国の土を踏んだのであった。

 空港では多くの日本人や外国人がPCR検査を待つために待機していた。私も係員に案内されるままに待機し、硬い椅子にて待つこと3時間、ようやく検査を受けることが出来たのであった。そしてさらに結果が出るまで1時間待った私は、検査結果が陰性を示す紙面と共に税関と入国審査を受けたのだった。税関では出発地を聞かれた際に「ロシア、モスクワからです」と答えると、審査官は「ええっ!」と声を上げて驚き、全く荷物の検査をする事もなく「ご苦労様でした!」の一言で通過させてくれた。有難い気遣いであったが、しばらく笑いをこらえるに苦労したものであった。

 日本時間22時過ぎ、私は入国審査のゲートをくぐった。正真正銘の日本だ。出発地に送還されることもない。不可逆的に私は日本に戻ってきた。モスクワ留学、そして戦争からの逃避行はこれにて終わりを迎えたのであった。

 だがしかし、私には3月1日までの強制隔離生活が残っていた。まだまだ我が家に帰ることは出来ない。もう少しだけ旅は続くのであった。


・2022年2月27日日曜日~3月1日火曜日 隔離期間

日本と隔離と戦争と

 成田空港のロビーは人であふれかえっている。隔離先毎にひと塊となり、多くの人が立ちんぼをしていた。私の隔離場所は両国国技館横のアパホテルであった。成田空港からは1時間はかかる距離だ。風に聞く噂では、隔離先が遠い場所になる場合もあるとのことであったので、一体どんな所に送られるのかと冷や冷やしていたが、どうやら杞憂に済んだようだった。ホテルには大型バスで移動するとのことであったが、このバスが来るまでに更に1時間待たねばならなかった。時刻は23時を過ぎていた。夜遅くまで我々の為に働く職員の方々には頭が下がる思いであった。

 都内をバスに揺られて1時間移動し、やがて到着したホテルでは部屋に案内されるまで更に1時間待たねばならなかった。バスの車内では誰しもがイライラとした雰囲気であったが、一方で私はと言うと「まぁロシアでは散々待たされたし、日本語が通じるんだから別に困ることはないだろう」とゆったりと構えていた。とは言えさすがに疲れていることに変わりはなかったので、早く部屋に入りたい気持ちは同じであった。時計を見れば時刻は0時を過ぎ午前1時が来ようとしていた。ようやく部屋への案内が始まった。指定された部屋へと入り、ホテルから渡された弁当を食べ、シャワーを浴びてやれやれとベッドに入るころには午前2時が迫っていた。モスクワを出てから48時間以上が経過していた。

 それから3月1日までは何もない時間がただただ過ぎるばかりであった。しかしウクライナの戦況はどんどんと私のもとに入ってきた。ウクライナ軍の善戦とロシア軍の苦戦、そして戦争の与える影響への懸念と戦争の行く末は様々な媒体を通じ、ありとあらゆる言語、ありとあらゆる場所で紛糾していた。

 三日という時間は戦争を目の当たりにした人間として自ら身の振り方や戦争に対する考えを纏めるのに十分な時間であった。


 やがて隔離期間も明け、自由の身になった私は東京のコンクリートジャングルに解き放たれた。手配された送迎バスを降りればそこは東京駅である。日本語であふれる看板や、排気ガスの臭い、そして見慣れた顔にどことなく懐かしさが感じられた。そしてモスクワの寒さに慣れた私の身体には東京の3月の気温が暑く感じられたのであった。私は上着を脱ぎ、袖を腕までめくりあげた。ふと顔を上げればウクライナとロシアの戦争についてのニュースが電光掲示板を流れていく。気持ちが改めて引き締まったような気分になった。私はスマホを取り出し、LINEを打ち込む。相手はかつての勤務先の風俗店だ。




「お久しぶりです、実は訳あって来週からまた働きたいのですが・・・」



3月のまだまだ冷たい風が吹く東京の、コートやジャケットを羽織る人込みの中に、大きな荷物を抱えた半袖の男が立っている。一風変わった男は手にしたスマホをポケットに仕舞うと、一歩また一歩と歩き始め、やがて雑踏の中へと消えていったのであった。


~モスクワ留学編~ 完


あとがき

 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 これにて私の人生の盛り上がり、モスクワ留学のお話は終了となります。この後地元に帰った私は、まだ帰国のかなっていない在露邦人を何とか帰国させてあげたい一心で政治工作の様な事をするのですが、結果は何も得られることはないまま、しりすぼみに終わってしまいます。ただまともに取り合ってくれて、そして国会で政府閣僚相手に代表質問までしてくれたのはリンク先の政党とその議員だけでした。この党の代表は私の地元選挙区の選出であり、また新人時代から祖父が推していたこと、そしてそんな祖父の葬儀にわざわざ本人が来てくれたこともあったので、藁をもすがる思いで私は彼を頼ったのですが、それはまた今度、別の記事にて詳しくお書きしましょう。

 さて職もなく夢もついえた私は地元の風俗店に舞い戻り、アルバイトとして受付とホールの仕事をこなす日々を送っていました。そんな中、ふと呟いたツイートをきっかけにして、今こうしてnoteの記事を書くことになったのです。私のこれらの記事が誰かに笑顔と元気をお届けできたのならば、それはこの上ない幸せです。そして私の経験が誰かの人生の道を照らす一助になれたのならば、私の今までの生き方が間違っていなかったことの証明になるでしょう。それは人として最も幸せな生き方に他ならないと私は思っています。

 記事を書き始めてから様々な方と巡り合う事が出来ました。よろしければ、どうぞこれからも仲良くして下されば幸いです。まだまだ書き切れなかった経験もnoteに記事として挙げるつもりです。メイドのケツを追っかけたり、風俗店での日常であったり、そして先に挙げた政治工作っぽいことであったり・・・。山場の話は終わりましたが、どうぞこれからもお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

皆様からのコメントをお待ちしております。 
誤字脱字等ありましたら、遠慮なくご指摘くださいませ。

それではまた次のお話にて・・・。

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