仕事辞めてロシア留学したら戦争始まって計画パーになった話~モスクワ留学・帰国への道~
・2022年2月24日木曜日 モスクワ留学第二十七日目(開戦の日)
帰る手段がなくなった
開戦の報を知り、私はしばらくテレビの前で呆然としていた。ホストファミリーのNさんが部屋に入ってきて番組を見る。
「政治の番組なんてまっぴらだわ」
とチャンネルを変えた。Nさんは番組を変えるだけ変えて部屋を出ていってしまった。富裕層として、或いは西側を知るロシア人として心情は一体如何ほどなのだろうか。しかし次の瞬間、非常に奇妙な現象が起きた。変えられたはずのチャンネルが再びプーチンの演説の番組に戻ったのである。誰もリモコン操作はしていなかった。勝手に変わったのだ。私は途端に恐ろしくなったのと同時に、テレビの画面の向こうに巨大な影を見て取ったのであった。
とは言っても、急にばたばたとしてもしょうがないのも事実であった。私はNさんが作ってくれていた朝食を食べ、呆然とした頭をなんとか落ち着けようと努めたのである。この日はこの留学での最後の授業の日であった。未だに開戦という事実をにわかに信じられていなかった私は、いつもと変わらぬ日常に逃避するかの如く通学の準備を行った。
ステイ先を出て地下鉄に乗り込む。車内は昨日と変わらない様子であった。誰もが通勤や通学のために地下鉄に乗り込み、勤務先や学校へと移動していた。車両を降り、ホームを歩き、地表に出る。街の様子も通りの様子も何ら変わってはいなかった。しかし携帯電話の画面に映る文字列は、今まさに起きている戦争の事実を示してたのであった。
大学に着いた後も気が気ではなく、授業の内容は頭には入りはしなかった。クラスメートの皆も開戦の話題を口にしていたが、それほど心配している様子は見受けられなかった。授業の終盤、私の別れの挨拶も終わり和やかな雰囲気の中で帰宅の準備が始まった頃、あるニュースが私のもとに飛び込んできた。
「JAL、モスクワ便欠航」
私の乗る予定の便であった。欧米各国の航空会社が続々とフライトキャンセルを決める中、JALもそれに加わる形となったのである。私は咄嗟にSNSを開いた。JAL欠航の話題だけではない。ロシア軍がウクライナの首都キエフを爆撃し、各方面で続々と部隊が展開しているというニュースも入ってきた。私はこの時、キエフ陥落とウクライナの敗北を確信したのである。そして次に思い至ったのは、モスクワでのウクライナ系住民による報復であった。
母国が一方的に蹂躙された国民の心情は、我々日本人には想像の及ぶものではないだろう。それが東欧の人間であればなおさらだ。ウクライナにとって母国が軍事侵略されるのはつい80年前にも起きた事でもある。事ここに至ったロシアとウクライナの状況では、どこで何が起きても全く不思議はなかった。パルチザン、破壊活動、爆破テロ、残党軍による徹底抗戦、第三国の介入、そして警察による治安維持活動など・・・。それに我が国を振り返れば、ドゥーリトル空襲という戦争の早い段階での首都爆撃の例もある。私が地に足を着ける場所では、全てが今この瞬間に起きても、何の不思議もない事であった。
もたもたしている状況ではなかった。JALが飛ばない以上は代替の手段を確保せねばならない。すぐに開戦の混乱は広がるだろうが、まだその状況が見られない今こそ早期に動かねばならない。そんな私の焦りをクラスメートは感じ取ったようであった。
「どうしたんだ?」
と誰かが声をかけてくれた。私は英語で
「フライトがキャンセルされた、戦争の影響で。帰る手段がなくなった。」
と答えた。誰もが息を呑んだのが分かった。先ほどまで談笑していたはずだったのに、部屋は一気に沈黙する。皆、虚勢を張っていたのだ。彼らの傍にも一気に現実が押し寄せたのである。そんな中でアメリカ人留学生の一人が声をかけてくれた。
「もしステイ先から追い出されたり、何かあったりすれば俺の部屋に来い。大丈夫だ、助けてやる。」
40歳のホームレスを経験したアメリカ人だった。温かく力強い言葉であった。だが「ありがとう」以外に返す言葉が私には見つからなかった。こんな状況で声をかけてくれた人になんと返せば良いのか、私にはその言葉の引き出しがなかった。だがこの言葉は私に少しばかりの落ち着きを取り戻してくれたのだった。
覚悟が出来た。
私はクラスメートに向けてこういった。
「いや、きっと大丈夫だ。俺は日本に帰る。戦争から逃れるために。みんなも気を付けてくれ。そして日本にくることがあれば必ず知らせてくれ。平和な国をみんなに案内する。日本はいい国だ、きっと気に入るよ」
私は手早く荷物を纏めながら、独り言のようにこう言った。
"Escape from the war."
クラスメートにではなく、自分に言い聞かせるつもりで呟いた。私は足早に部屋を後にし、クラスメートと教室に別れを告げたのであった。
「本省からの指示はない」
大学を後にした私は真っ先に在露日本大使館へと向かった。日本国外においていざという時に最後の頼りになるのは大使館だろうと思っていたからだ。大使館の正門はロシア人の警備員によって守られている。警備員によって誰何され、用件を聞かれた。「ビザのトラブルが起きたので、相談だ」と適当な理由をつき入館許可を得た。まだ大使館に日本人が駆けつけている様子はなく、大使館は通常業務を行っている様子であった。窓口で用件を伝えると、のそのそと日本人の大使館職員が現れた。私の緊迫や懸念とは対照的に、一体何事かと言った風な怪訝な表情を隠すこともない、緩慢とした動作の覇気のない職員が現れたのである。
「ロシアがウクライナに宣戦布告をしましたが、政府として何か対策は?既にJALのライトはキャンセルされました!在露邦人はどうすればいいのですか!?」
私はこう尋ねるも、状況を分かっているのか分かっていないのか、大使館職員はぶっきらぼうにこのような返答をしてきた。
「本省からの指示はなにもありませんね。まだ他の航空会社は飛んでるからそれで帰国できるんじゃないですか?」
私にはこのボケた回答が信じられなかった。国家間戦争の当事国に駐在している大使館職員のくせに、情報収集をしている様子もなければ、主体的に動こうとすらもしていなかった。言葉に詰まった私を見て「用件はそれだけか」と言いたげな目を向ける職員に、私は早々に見切りをつけた。
「外務省は役に立たない」
モスクワで学んだことの一つであった。
足早に門を出るそんな私に、警備員が声をかけてくれた。
「ビザはもう大丈夫なのかい?」
警備員は笑顔でそう尋ねてくれた。
「ええ、もう大丈夫ですよ。ありがとうございます。」
私は当たり障りのない笑顔を顔面に貼り付けそう答え、大使館を後にした。私の意図した意味を、警備員は決してくみ取ってはいなかっただろう。
大使館を後にした私は旅行代理店と急ぎ連絡を取った。JAL欠航により帰国の足が消滅した事、振替便を第三国経由でいいので探してほしい事、可能な限り早い日程を探してほしい事、そして金に糸目はつけない事。以上をメールで連絡し、可及的速やかな折り返しの電話を求めた。そんな折に、当のJALから英文でメールの着信があった。
「お客様が予約していたフライトはロシアの航空事情の為にキャンセルされました。以下の電話番号に速やかに連絡してください。」との事である。私はすぐさま電話を掛けた。電話に出たのはJALの女性職員の様であった。
「アー、お客サマのフライトが、キャンセルになりました。今は日本は営業してないので、明日にまた日本の会社に電話してクダサイ」
電話の向こうには、拙いながらも懸命に日本語を話してくれる職員の姿があった。念のため英語で私は尋ねる。
「明日、日本の窓口に電話すればいいのですね?」
彼女は「そうです」と答えてくれた。日本時間は夜であったため、営業時間外とのことであった。当時モスクワ時間では16時過ぎ。時差は6時間あるため、日本では22時を過ぎたところであった。私は一旦彼女の指示に従い、時間の経過を待つことにした。しかし帰りの足がなくなったとはいえ、いつでもロシアを発てるように準備をせねばならないのは間違いなかった。
しかしこんな時ほどに物事はうまく運ばないもので、私は寄り道をせねばならなかった。病院にてPCR検査の陰性証明書を受け取らねばならなかったのだ。日本の帰国にはPCR検査の陰性証明書が必要だからだ。これがなければ入国は認められず、日本の地を踏むことは出来ない。昨日のうちに検査自体は実施済みであったが、証明書の発行には時間がかかるのであった。陰性証明書を手にしたときには、もう夕方の18時を過ぎていた。
「ご指摘を頂きました内容につきましては、ごもっともでございます。」
爆弾テロに巻き込まれやしないかと冷や冷やしながら乗る電車は、本当に気味の悪い物であった。ウクライナ侵攻の様子はウクライナが不利な状況ばかり伝えられていた。募る不安が解消される報道は何一つ存在しなかった。
私がステイ先の最寄り駅に着いた時、JALから再びメールが、今度は日本語にて届いた。
振替便の案内であった。3時間後出発の便か、一週間待つか、どちらかの選択がJALから提示されたのであった。私はまだ地下鉄のホームである。ステイ先から空港まで、片道1時間は優にかかることを考えれば、私に与えられた時間は2時間もなかった。私は迷った。
「急げば間に合うか?」
一瞬このような考えが頭をよぎったが、しかし私はすぐにあきらめた。楽観は希望的観測に基づくが、悲観は観測される現実に基づく。このような状況で希望的観測にすがるのはドツボに嵌る未来が待っていると、冷静に判断したのである。それに、たとえ着の身着のままならまだしも、いや着の身着のままだったとしても、たった2時間で「いまから国際線に乗る準備をしてください」とは、無理難題にもほどがあった事だろう。
そもそも、当初のJALからの指示は「明日まで待ち、日本と連絡を取れ」であったはずだ。フライトキャンセル自体はやむなきにせよ、このちぐはぐな対応は一体どういうことなのか。ふつふつとJALに対する怒りがこみ上げ始めた。私はこの送り主に噛みついた。
ステイ先に到着し、憤懣やる方無しといった心情でメールをJALに送り付けた。もちろん直接の責任がJALにあるわけではない。しかし急なフライトキャンセルと二転三転する対応、そして無理難題かつ非現実的な選択を迫られて、それでもなお怒らない人間が居るのならば、私は是非とも見てみたいものである。
やがてJALからの返信が届いた。
これは嘘偽りのない正直な話であるのだが、私はこの返信を読んで大爆笑をしたのであった。よもや無理難題を顧客に求めていると認め、なおかつ社内の体制不備まで認めるとは。これが笑わずにいられるだろうか。とは言えメール対応をしていている彼には非も責任もないし、さらに言えば顧客からの愚痴を受け止める以外、何も出来ることはないのである。これ以上はもはや不毛であった。
帰国便の確保
しかしどのような危機の中でも救いの手は差し伸べられるものである。私の救世主は旅行代理店からの一本の電話であった。
「カタール航空かターキッシュエアラインズなら、第三国経由になりますが日本に帰国できます!」
是非もなかった。私はすぐに出発時刻の早い方の便にて座席の確保を依頼した。通常であれば入金確認後にチケットの発券となるが、戦時下という情勢の為に、代理店は後日入金で良しという対応をしてくれたのであった。そして代理店からは座席確保完了の連絡が時を置かずして私のもとに寄せられたのであった。
「日本に帰れるぞ!」
戦争からの逃避行はどうやら成し遂げられそうであった。だが安心するには早すぎる。日本の地を踏んで初めて気を抜くことが出来るのだ。まだロシアから離れてすらいない段階で気を抜くのはあまりにも時期尚早であった。私は改めて気を引き締めつつ、荷物を整理し始めた。本当であれば楽しい思い出とともに詰め込むはずであった沢山のお土産も、このような状況下ではただの嵩張るお荷物であった。特に先日購入した「ブラン」はその大きさの為にカバンは重くなったのであった。ソビエト連邦時代末期、「ブラン」はその費用でもってソ連の財政と経済を圧迫したように、私の荷物事情をも圧迫をしてくれたのであった。荷物をようやくまとめ終わった頃には、もう夜は深けていた。モスクワでの最後の夜が迫っていた・・・。
・2022年2月25日金曜日 モスクワ留学第二十八日目(帰国の日)
別れと出費と出国と
翌日の朝はいつもと何も変わらない朝であった。テロ活動も首都爆撃も起きていないことに私は安堵した。平和な朝を迎えられることのありがたみをかみしめていた。ステイ先での最後の朝食を食べ、そして部屋にてホストファミリー宛てに、一か月間にわたる感謝の気持ちを手紙にしたためたのであった。
ホストファミリーのNさんは仕事の都合上、早朝に出勤をしていた為、最後の挨拶はかなわなかったが、Eさんにはお礼と感謝のハグを行い、そして何より身体の健康を心から祈ったのであった。
私はEさんと別れ、マンションの扉を開いた。鍵を返してしてしまった以上、最早戻ることはかなわないのであった。いよいよ日本に帰る時が来たのだった。私の脳裏にはこの一か月間に過ごしたモスクワでの楽しい日々と苦労が走馬灯のように駆け巡るのであった・・・。
しかしここはモスクワ。そんな気持ちの一方で、代理店の手配したタクシーは来た時と同様に時間通りに到着することもなく、感傷的になった私の気持ちもモスクワの冷たい空気にすっかり冷やされてしまったのであった。到着予定時刻から小一時間も経った頃、ようやく迎えのタクシーは到着した。私はすっかり冷えきった身体を震わせながらタクシーに乗り込み、今度こそステイ先を後にしたのであった。幾度となく歩いた通りも、幾度となく帰ってきたマンションも本当の本当に最後の別れとなったのであった。
私を乗せたタクシーは1時間近くかけて、モスクワ郊外のシェレメーチェボ空港に到着した。願わくばウラジミール君と最後の挨拶をしたかったが、残念ながら彼は連日の疲れからか高熱にうなされていたのであった。私を楽しませんが為に体力も時間も割かせてしまい、遂には体調を崩してしまった彼には、逃げるように日本に帰る私の姿はどう映るのであろうか。後ろめたさとバツの悪い気分ばかりが、私の心を支配するのであった・・・。
しかしネガティブな気持ちに引っ張られている状況でもなかった。私は重たい荷物をえっちらおっちらと引きずり、空港のカウンターで手荷物を預け、チェックインを行った。日本への帰国はもう目の前に見えていた。しかしここでもまたハプニングは起きるのであった。持ち込んだ荷物が大幅な重量超過であり追加料金を支払わねばならなくなったのだ。だがそれが一体なんだというのだろうか。戦争当事国から逃げるのに金は最早問題にはならなかった。カードで払います、と自身のクレジットカードを取り出した。しかし空港職員らは怪訝な顔をして中々カードを受け取ろうとしなかった。
「95,700ルーブル(当時約13万円)になりますよ」
と何度も何度もロシア語で私に伝えてくれて、中々カードを受け取ろうとしなかった。挙句には英語でも値段を私に訴える始末であった。それもそのはずであろう。この金額はロシアの平均月収の倍近くであるし、ロシアで最も豊かなモスクワでの平均月収よりも更に多い金額であるのだ。彼らからしてみれば「言葉の分かっていないアジア人が勘違いしているのだろう」としか思えなかったはずである。しかし生憎ながら私は日本人である。この程度の金額、命との天秤にかけるまでもなかった。
「ロシア語も英語もわかっている、良いから早くやってくれ!」
私も何度も何度も同じ言葉を繰り返し、ようやく彼らもカードを機械に通したのであった。スーツケースもバッグも預け、発券された航空券を受け取った私はまっすぐに保安検査と出国手続きを行い、ゲートを潜ったのであった。パスポートに出国のスタンプが押された。私のビザに認められた入国の回数は一回こっきり。法的にはもう後戻りのできない状態になったのであった。
一旦の区切りがつき、私の気持ちも少しばかりは落ち着くことが出来た。張りつめた糸も、切れるほどではないにしろ少しばかりは緩めることが出来た。そして気持ちに余裕が出来れば途端に欲しくなるのは冷たいビールである。私は空港内のレストランに入り、案内されるのを待つ間もなく空いている席にどっかりと座り込んだのであった。店員にビールと揚げ物を頼んだ私は、給仕されたビールをアテが来るのを待つことなく一気に飲み干した。疲れ果て精も魂も尽き果てかけていた私の脳味噌は、アルコールという燃料で一気に息を吹き返し、再び元気よく回り始めたのであった。
2杯目のビールは注文したつまみと一緒にテーブルに届けられた。モスクワで食べる最後の晩餐は、揚げたてのフィッシュアンドチップスとよく冷えたピルスナー・ウルケルであった。
食事を食べ終えた私は、まだまだ出発時刻まで余裕があったもののそそくさとゲートの前に移動した。少しでも日本に近づきたかったのである。待合いのベンチにはすでには多くの人が座っていた。彼らの顔にも不安そうな表情が張り付いていたのであった。
ベンチで1時間半くらい待ったころであろうか、やがて飛行機の搭乗が始まった。モスクワ発ドーハ行きの便はその扉を開き、戦争の難を逃れようとする人々が飛行機へと乗り込んだのであった。飛行機のシートに座り込む。まだ気は抜けなかった。まだ飛行機はロシアの地を踏んでいるのだ。機内のざわめきも収まった頃、離陸を告げる機内アナウンスがロシア語、英語の順で流れ、エンジンの回転数が少し上がった。アイドリング状態のジェットエンジンが機内に穏やかなメロディーを響かせた。機体は次第に動き出し、まだ雪の積もった灰色の滑走路が、ゆっくりと窓の外を流れ始めた。やがてタキシングは終わり、滑走位置へと機体はたどり着く。
いよいよ離陸だ。
一瞬の停止の後、エンジンの音は急に甲高く鳴り響いた。背中は座席に押し付けられて、身体全体が機体と共にガタガタと揺れだした。滑走路、ターミナル、飛行機・・・全ての景色が窓の外を端から端へと一気に流れていく。瞬間、ふわっとした感覚が体を包み、お尻が座席から突き上げられた。機体は無事に、離陸したのであった。機は何のトラブルもなくぐんぐんと高度を上げていった。やがて機内食が配られ始め、機内に弛緩した空気が漂い始めた。しかしまだまだ安堵は出来ない。ドーハ空港に着陸するまで、機体が引き返す可能性は十分にあったからだ。だが私の心配も杞憂で終わった。機は無事にロシア領空を脱し、カフカスの山々を飛び越えて、カタール領空へと入ったのであった。
チケットがない!
ドスン!という衝撃と共に機体はいざカタールがドーハ空港へと降り立った。私は名実ともに、戦争から逃れることが出来たのであった。この時の安堵たるや。緊張の糸は途切れ大きなため息を私はついた。ついに戦争から逃れられたのだ!!
すっかり安堵しきった気持ちで私は機を降り、日本行きの便に乗り継ぐためにターミナル内を移動した。次の便まで3時間近く余裕があったので、ここで一旦手荷物の確認を行った。日本に入国するためにはコロナの陰性証明書等、必要な書類が多いからだ。バッグを開き、書類を数える。パスポートも陰性証明書も欠ける事無くバッチリ全て揃っていた。しかしどうも違和感を感じた。何か大切なものが欠けているような、忘れているような、そんな不安を振り払いきれなかったのであった。もう一度荷物を確かめてみる。財布、パスポート、陰性証明書、クレジットカード・・・何一つ欠けるものはないように思えた。
「あっ!」
それに気が付いた時、私は大きな声を出してしまった。肝心要の物がない。これが無ければ飛行機に乗ることは叶わず、日本に帰ることも叶わない。
日本行きのチケットがどこにもないのだ。
ロシアを離れて一難が去ったと思えば、またもや私に更なる一難が降りかかってきたのであった・・・。
~モスクワ留学・帰国への道~ 完
あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
本当であれば先の土日に記事を上げようかと思っていたのですが、それどころではないニュースが飛び込んできましたので控えておりました。世の中何が起きるのか分からないつもりでいましたが、安部元首相暗殺事件と言うのはかなり衝撃的でした。歴史の瞬間に我々は立ち会っているのだと改めて強く思った事件でした。安倍晋三氏の冥福を心からお祈り申し上げます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
様々な苦難を乗り越えて(?)ようやくモスクワを後にする事が出来ました。JALへ送った文面を今読み返せば、なんとも生意気な事を書いているなと思います。しかし実際にあの時あの場所にいた人間の、嘘偽りのない気持ちの発露と言えるでしょう。イキっている姿を不愉快に思われるかもしれませんが、何卒ご容赦下さいませ。
しかし逃げた先のドーハにて、日本行きのチケットが手元にないことに気が付いた時の焦りと来たら!この原因は次回お話いたしますが、私はなぜこうもトラブルばかりに見舞われるのでしょうか。本当に不思議なものです。私の奥さんになる人は、トラブル好きでなければ務まることは難しいことでしょう。
そしてロシアでウラジミール君やホストファミリーのNさんへと最後の挨拶が出来なかったのが今でも心残りです。いつか平和な世界となり、ロシアへの道が再び開かれれば、改めて彼らに会いに行きたいものです。またなにより、一人の日本人としてウクライナへと赴き、少しでも復興のお手伝いをしたいと心から思っています。それまでにウクライナ語を身につけないといけませんね。
さて次回は日本への帰国と隔離生活、在露邦人帰国に向けた政治工作、そして風俗店への帰還の話になると思います。実質的なモスクワ留学編の最終回は今回ですが、家に帰るまでが旅行です。そして日本に帰国してからも私の苦労は政治的な分野で続くわけなのですが、それはまた次回のお楽しみに取っておきましょう。
皆様からのコメントをお待ちしております。
誤字脱字等ありましたら、遠慮なくご指摘くださいませ。
それではまた続きのお話にて・・・。