きっと私はこのままプログラミングをやめる―私は私を少し理解したから

(関係者各位)
この文章は、体裁を整えるためにやや誇張した表現となっています。適度に割り引いて受け取ってください。


私は私のことを何も知らない。

何が好きなのか。何をすると楽しいのか、何にやりがいを感じるのか、何ができるのか。

何が嫌いなのか。何をしたくないと思うのか、何に罪悪感を感じるのか、何が苦手なのか。

私は何も知らなかった。今だって、全然わかっていない。

だけど、やれることをそれなりにやってみて、未踏でスーパークリエータ認定までもらって、そうしてようやく一つ、わかった気がする。

私はソフトウェアエンジニアに向いていない。職業エンジニアに限らず、プログラミングでものづくりをするということが私には向いていない。

たしかに私はあるときソフトウェアエンジニアであった。開発会社に勤務し、職業エンジニアをやっていた。それ以前はインターンだったり、業務委託だったりで、10代半ばから仕事としてのソフトウェア開発を経験していた。OSS開発に参加したりもした。

そうして私はいろいろやったけど、やってよかったと思えるものなんてほとんど存在しなかった。仕事があるからタスクをこなして、頼まれたから何かを作って、お金はもらったかもしれないけれど、これを作ってよかったと思えるものがない。

エンジニアリングで作るものの9割は世の中になくてもいいもので、実際にあらゆるプロダクトが作られ、そして消えていく。あとには何も残らない。理屈自体は理解しているつもり。つまり、経済とはそうやって回って成長していくもので、それがみんなの生活水準向上につながるのだと。

だけれども、だけどもだ。私が実装したもので、誰かを幸福にしたんだろうか。無意味なものを作って、お金をもらって、会社が儲かって。外れアプリを掴まされて嫌な気持ちになったかもしれない誰かの顔が、浮かぶのだ。

良い実装ができて、納品ができて、会社が儲かれば同僚や社長は喜んでいたように見えるけど、私は別に嬉しくなかった。エンジニアがいい仕事をして喜ぶのは、たいてい同僚や上司だ。業績が上がれば給与も上がるかもしれないけど、エンジニアというのはそれなりに恵まれた待遇の仕事でみんな自分で稼ぐ力がある。だからどうでもいい。あなたたちはもうすでに幸せでしょう? 私は自分たちだけがこんなところでいい思いをしていることに少しばかりの後ろめたさを感じていた。救われてほしい人はもっと他にいるのに。

私が仕事をした中で一番嬉しかったのは、給与から税金と社会保険料が天引きされたときだった。そのお金は行政に使われて、福祉にも使われて、間接的に誰かが生きるための役に立ったかもしれないと思えた。それくらいしか、やっててよかったと思えることなんてなかった。

こぼれ話を一つだけ。私が開発に関わったとあるサービスは、あとから調べてみると投資詐欺に使用されていた。被害者の会みたいなページに、懐かしい画面のスクリーンショットが乗っていた。会社が知っていたかはわからない。ともかく、受託開発のエンジニアは仕事を選べない。

ここまでは、動機の話。技術的な観点からはどうだろう。

まず、私には能力が足りない。それを向上させたいという意思もない。実は技術にもそれほど特別な興味がない。

プログラミングができるから、はじめた。そういった意味で最初の適性はあったかもしれない。まあ、未踏のスーパークリエータになれる程度の適性はあったのだろう。けれど、その程度なら掃いて捨てるほど居る。そして、私には技術だけで価値になるほどの能力はないし、能力を向上させたいという意思がない。

技術は面白い。プログラミングもそれなりに楽しい。だけどそれは、ゲームに簡単に負ける。だったらゲームをやってればいい。ゲームではなくあえてプログラミングを選ぶ理由がない。

この感覚は、競技プログラミングをやらなくなった過程ににている。始めてみたら簡単にJOIの本選に行けたのでやってみたが、春合宿には結局行けなかったし、特別のめり込む楽しさもなかった。やったらできた。でもそれだけ。

そんなわけで、私にはソフトウェアエンジニアである理由がない。それは世の中に必要な仕事だと思うけど、私には向いていない。

未踏まで行って結論がそれなのかというのは尤もだけど、未踏まで経験したからやっぱり無理だなと諦めが付いた部分もある。私は努力できるならソフトウェアエンジニアがやれるかもしれないけど、そこに熱意を持つのはもう無理だ。

仕事をするなら、肉体労働とかがいいかななんてぼんやりと考えたりもする。でも私には仕事以前の問題がきっとたくさんある。目の前の問題を一つひとつ潰していく。自分についてもっと知らなきゃならない。何年かかかるかもしれない。自分のすべてが分かる日はきっと永遠に来ない。

若いんだからいくらでもやり直せると、言われたことがある。何も知らないくせにと思った。だけど、確かに試行錯誤する余裕が人生には残っている。

プログラミングが少しできることが、そう思われていることがきっと呪いになっていたけど、割り切って捨ててしまえば、少し楽になれる気がする。

これからどうなるかはわからないけど。どうなりたいということもないけど。これは呪いだから。さっさと振り払ってしまったほうがいい。

最近ウォーキングをするようになった。きっかけは些細なことだった。葬式の帰りに普段いかないスーパーに行かされたらアイスが安かった。無視できない値段の差だったので、頑張って歩いて買いに行くようになった。暑い中で歩くと楽しいことに気づいた。そのうちに、速く歩くと楽しいことに気づいた。でも速く歩くには筋肉が足りなくて、そのためなら楽しくもない筋トレだってできることに気がついた。プログラミングでは、やったことが無駄になるなんて当り前だけど、運動は、確実に前に進むから楽しい。

こんなことに気づくのに随分と時間がかかったけれど、やっぱり私は自分のことを何も知らない。私自身が知らない私が好きなことが、想像もしないところから出てくる。これからなんて知らないけれど、今の生活にそれほど不満はないからこのままでもいいし、それとも意外とあっさり変わってるかもしれない。

最後に、口を出されるとやる気をなくすというのはよくわかった。応援されるのもそう。私は自分の純粋な気持ちだけで行動して、失敗したり学んだりしたい。そこに誰かの感情が入り込むと邪念が混ざる。意思決定が純粋じゃなくなる。うまく行っても私の力じゃない気がするし、失敗したらあんな事言われたせいだと責任転嫁。

自分だけで決めたことじゃないと、成功体験に繋がらない。誰かに何かを言われた分だけ、私を縛る鎖が増えてゆく。その一言が、あなたはどうせ何もできないという鎖をかける行為。

まだ、人間じゃない。これから鎖を引きちぎっていかないといけない。新しい鎖はもういらない。



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