<反骨と憧れ>私がザコい広告やさんになったわけ。
はじめに
前回の投稿をご覧いただいた皆様。
どこのどいつかもわからない駆け出し広告ライターの拙い書き物を読んで頂き誠にありがとうございました。
読んで頂くだけにとどまらずスキをつけて頂いたり、フォローして頂いたりしてくださった方も沢山いらっしゃって本当にうれしく思っています。
折角始めたので自分が何者なのか自己紹介もかねて、
求人広告ライターという仕事に就くまでの話をまとめてみます。
ただの自分語りにならないように留意しますが、もしやかましいと感じられました そっ とブラウザを閉じてください。よろしくお願いします。
逆にもっと聞きたいことがあれば、遠慮なくコメントでもなんでもお寄せください。
物書きとして初めての成功
生まれも育ちも宮城県。仙台市に隣接する町ですくすくと育ちました。
少年時代の一番古い書き物の記憶は、小学校のころの作文コンテストです。
ちょっと捻くれた思考が育ち始めたころで、作文コンテストを受賞しているのが「身内の不幸に負けない系」「全国大会に挑む僕・私系」ばかりなことに気づいてしまいました。
これ自分も取れるんじゃね?と思い、自転車で転んだ祖母の話を盛りに盛って書いた結果、目論見通り県で佳作を取りました。(選考で負けたのは同じ小学校の同級生が全国大会に出場した作文)
読者(審査員のおじさん・おばさん)が求めることを書くとウケるということを知ったのは恐らくこの時です。
基礎知識を蓄えた中学時代
地元の公立中に進学し軟式野球部に所属、生徒会の副会長を務めたりキラキラしていた時代ですね。まぶしい。
小学校時代の基礎国語力をしっかり伸ばせたのが多分この時期です。
デルトラクエストやらかいけつゾロリやらを読みつつ、自宅にあった父所有の三国志(横山光輝)全60巻を繰り返し読んでいた小学生は、東野圭吾や井上ひさし、三浦しをん、金城一紀、伊坂幸太郎などを読破。昼休みは決まって図書室に通ってました。
美談でもなんでもない話ですが、いじめられないためにどんな無茶ぶりをされても誤魔化すお茶を濁す技術はこの時代に磨きました。
CMソングのパロディ一発ギャグとかを日夜考えたりなんかして。
思い返すとこの時期異常にCMをみてました。広告に目覚めた一端はこの時代にあったかもしれません。
やんちゃなクラスメイトに逆らわず、ピエロになり続けて生き残るという生存戦略で地位を確立していました。
年度末は部長、生徒会役員として学校史の原稿依頼の締め切りを何本も抱えてヒーヒー言ってました。
10数年後それが日常になるとは露知らずに、、、。
アイデアを生み出す楽しさを知る高校時代
高校入学後は、中学までの勉強貯金を使い切って校内順位は下から10番とかザラでした。特に数学が目も当てられない点数。
課題を出すことで何とか進級・卒業をさせてもらいました。
社会科系が好きで、特に教師が偏屈すぎて面白かった倫理政経とかめっちゃ好きだったなぁ。
哲学とかは今でも好きです。パラドックスとか思考実験とか。
ただ、読んでるだけで飽きてきたころでしょう。
ここで質問です。皆さんは高校時代お小遣いっていくらでしたか???
1万円?5000円?3000円?お小遣いなしでお年玉切り崩し型?
ちなみにわたし。月5000円でした。
通学は自転車だったので、純粋に娯楽と日用品購入費用でしたね。
当時の金銭感覚だと月5000円で最大限の楽しみ方を模索することに一番脳のリソースを割いてましたね。皆さんもそうじゃないですか?
地方だと東京程娯楽の種類もないし、自転車移動で極限まで交通費を削ってお金のかからない遊びを創出してました。
百均で買えるものを組み合わせておもちゃを作ったり、捨てられていた粗大ごみで遊びを考えたりとか。
クリエイティビティの根源は多分この時代です。
ファッション浪人 狂い始める歯車
高校時代の成績はお世辞にもよくなかったのですが、実力不相応大学を受験しました。周りが優秀だったので自分もできると思い込んでいたんですね。
立ち位置が見えてなかった。若さゆえの過ちです。
人事を尽くさなかった現役時代は奇跡も起きず進学先のない状態になりました。名前書くのは得意だったので、私立の二次募集とかなら入れたと思うんですが本命大学に行きたいかもぉ。とゆるめに浪人を決意。
河合塾に通います。とはいえファッション浪人。意志弱弱(よわよわ)のため気が向いたときに得意科目を勉強する程度で、思い返せば随分無駄な時間でした。
ただ、予備校講師って人種はすごいもので、生徒指導とか部活動とか不要な業務何も持ってないから「教える」という分野に関してはやはりすごかったですね。
余った時間で人生観なんかを説いてくれるのですが、
これがまた面白い。ジャーナリストを経て社会科の先生になった方が
取材先の中東で国境を超える時に死にかけた話。
数学の先生に説かれた「勉強する意義は圧倒的多数の凡人が一握りの天才の才能を摘まないため」なんて話は今でも胸に残ってるのでそういう意味では、よかったのかもしれません。
あとは空き時間で超成績よかった奴とキャッチボールをして、1年間でスライダーを投げられるようになりました。今でも投げられます。
大学入学 自由とその代償
ファッション浪人の結果第一志望は当然受からず。
なんならセンター試験(今でいう共通一次テスト)では足切りみたいな点数でした。平均点が史上最低点だったみたいな最悪の世代。
そんな点数でも受かりそうな大学ってのは探せばあるもので、高崎経済大学を受験。2次試験が得意科目というのと、公立なら県外で一人暮らしOK。
2点で選びました。勉強したいこと?大学行けばみつかるっしょ?
批判ではないですが、何も考えずに大学に進学するのってあんまりいいことじゃないかもな。
そして一人暮らしが始まるのですがこれがまぁ楽しい。
部活やバイト、友人や先輩との付き合いで勉強どころじゃなくなってしまいます。本当に一切授業に出ない週もありました。
学業以外ではやりたいことをやりたいだけやって、単位を落とし続けた結果
計算上卒業時の年齢が27歳になってしまうことが分かり、24歳で大学を中退して働き始めることを選択し学生生活が幕を閉じます。
ハローワークでハローできない。
大学を辞めたのが9月。地元に戻ってきてから仕事を探し始めます。
自己分析?ES?特に就活もしてなかったので知識はゼロベース。
誰かに何とかしてもらおうと、とりあえずハローワークに行ってみました。
ここでついに自分の人生を決定づける運命の出会いを果たすのです。
初っ端の面談で40~50代のおじさまから
「やりたい仕事ってある?」
人生をナメに舐めていた当時の自分は、仕事を探そうというより
見つけてもらおうと思っており、この質問で初めて自分が働くことを想像しました。
学生の時居酒屋でバイトしましたが、客商売は楽しいけどストレスと疲労があるから接客は避けたい。とはいえ堂々と好きを公言できるものもない。
長い沈黙の果て苦し紛れともいえるようなタイミングで
「広告。特にCMが好きなので作ってみたい」と絞り出すと
「高卒に広告の仕事なんかない。自分の身の丈を知らないと苦労するだけ」
とバッサリ切り捨てられ、NHKの集金の仕事を勧められます。
今思えば至極まっとうとも思えるのですが、当時は出会って数分の他人に自分という人間の大きさを決めつけられたことに納得がいかず、数枚の求人票も受け取らず帰宅。
憤慨して寝転がりながら検索窓に「学歴不問 広告」と入力して出てきたのが求人広告ライターのアルバイト採用でした。
求人との出会い。~ザコい広告やさん爆誕~
ハローワークに対する反骨心だけで入社した自分には、商売に出来るほどのライタースキルは皆無。
あるのは諦めの悪さと底知れぬ興味、広告業界に対する憧れのみ。
それでも自分も作りたい。読者の心と人生を動かす求人広告。
求人を書く、デザインするという仕事にのめり込み、学び、転び、立ち上がりながら自分なりにノウハウを生み出してきた話は、まだまだ長くなるのでまた次回に書こうと思います。
マーケティング不足で、アナタが求めているものを書けたかいまいちわかりません。がここまで読んで頂けたら私のことは少しならず知っていただけたと思います。今後も何卒よろしくお願いいたします。