『 古希のタクドラ逆転人生 』
人間は19歳までに刷り込まれた
「常識と偏見」で生きている。
あなたは今幾つ?
🟰 間違った偏見(バイアス)に縛られてちゃダメ!!🟰
☆57歳からの人生謳歌☆
こんな面白い仕事があったんだ!
この稼業は早いものでスタートからもう15年になる。
始めた当初は訳も分からず毎日が正に「迷走の日々」でした♪
ことの始まりは48年前、24歳で脱サラをしていい加減な覚悟で「花屋」を始めた事です。
きっかけは当時勤めていた麻雀仲間の職場の上司から
「許可も資格もいらないし、儲かる商売があるけどやる?」と余りにも唐突で突飛な話に軽々と飛びついた事からです。
本来「花屋」を開業するなら少なくとも2~3年業界で下働きをして花の勉強と準備期間を経ての独立開業の手順だろうが、今風の表現をすれば当時の私は「マジでチャラい男」だったので軽い気持ちで始めたのです。
(今も大した成長はしていませんけどね^^;)
もし今、同じような条件でワタシが花屋開業の相談を受けていたなら
「冷静になってよーく考えてごらん」
「やめておきなさい!」と
多分、いや、間違いなく100%自信をもって力づくでも辞めさせるでしょう。
ちなみに当時、すでに結婚もしていたし子供も一人いたのです。
そうなんです甘さ抜群の無謀な思いつきでの脱サラなどは、あっという間に終了のゴングが鳴るところだろうけど
その「花屋稼業」はなぜか、いや、周りの理解と協力で33年間もつづける事ができたのです。
当然、初めの数年は軌道に乗るどころか赤字続き、それなりの洗礼は受けつつ、ご多分に漏れず仕方なく親からのお慈悲で食をつなぐ日々が続きました。
ところがほどなくして、、そうですね7〜8年してからでしょうか、あの「バブル景気」がやってきたのです。
★華やかなバブル期
当時は世の中全体もそのバブルの実感はなく、なにやら売上の上昇につられて通帳の預金残高もそこそこ右肩上がり。
そんな時代の流れに乗りありがたくその恩恵にも授かり、土地神話にもつられて近くに50坪ほどの不動産を購入できたのです。
その土地に簡単な軽量鉄骨で枠組みして屋根はテント生地のフラワーショップを開設。
いわば「仮設店舗」営業となりました。
(*屋根をシートで仕上げると固定資産税の対象外になるのです。)
それからほどなくして銀行から「土地担保で融資しますからシッカリした建物で商売しましょうよ」とのお誘いがしつこく来るようになりました。
今思えば夢のような時代だったなぁ。
いよいよその気になり一階に店舗・二階は貸店舗・三階は自宅となる3階建てのビルディング?を施工。
これについては当初ワタシの考えは基本的に住宅空間(自宅)は投資対象にはならずお金は生みません。
なので
二階も三階も貸店舗として他人に貸すことにして自宅は今まで住んでいた近所の市営団地で充分との考えでいたけれど、、
それでは「債権者様」の銀行が首を縦に振らないのです。
しぶしぶ三階は自宅にして住むことに落ち着いたのですが、それなりに建築予算も上乗せになるし、仕上がった後には様々な税金トラップの嵐。
まして
二階のテナントさんもなかなか決まらず、月々の住宅ローン返済も今と違い金利も高利で毎月の元利合計返済金額は相当な額になっていたのです。
なおかつ固定資産税の重さにはゾッとしました。
とはいえ
そんなことをよそにバブルは絶頂期!
ありがたいことに気持ち悪いくらい商品は売れまくり、一時は仕入れが追いつかないほどに・・。
その流れに乗り商売も軌道に乗って来たのですが、
そこで
「勝って兜の緒を締めよ」になれてれば良かったけど。
おバカな下級国民は浮かれちゃったんですね~。
お決まりのコース。
3日に一度のゴルフ三昧・・
お陰で?ハンディキャップはシングルまで行ったけどある時、税務署員から
「ゴルフのハンディがシングルの方はもう交際費としては認めずらい」と言われてしまった。
それも「なんだかな?」と思ったけど
どことなく納得させられました。
★宴の終了と暗い過去
おバカな経営者はいろいろ遊びまくって気が付いたらバブル崩壊とリーマンショック!!
押しなべて売上は右肩下がり。
これはいかんと悪あがきを始めるも一度回り始めた負の連鎖は簡単に止まりません。
V字回復もままならぬまま金策に走り、何を血迷ったか街金(消費者金融)をつまむ羽目に。
ア〇ムさん、レ○クさんその節はお世話になりました(笑)
ほとんどの行き詰まった経営者がそうであるように、そこまで行くといわゆる多重債務者のお仲間入りになりかかったところで運良く債務整理の有志団体の方々とネットで知り合ったのです。
「三人寄れば文殊の知恵」を授かり、任意整理にも取りかかり何とか暗いトンネルから出口の兆しが見えてきました。
そんな恥ずかしくも貴重な体験をもとに、自分も経験した多重債務に悩む方たちの為にボランティアで「サバイバル無料相談会」などを企画。
合法的な債務整理をアドバイスしながら、お会いして初対面ではうつむき加減で暗かった相談者さんの顔つきも、悩みを話し終えて帰る頃には笑顔も・・。
当時は花店にそんな相談者が何組も来訪したのです。
あの時、
こんなワタシでも少しは皆さんのお役に立てたのかな?
★ターニングポイント
そんな決して他人様に自慢出来ない低迷期をさ迷っていた昼下がりに店の一本の電話が鳴ったのです。
聞き覚えのない大学病院からでした。
私には男4人女1人、計5人の子供が居るんですが東京で独り暮らしの二男がアパートの自室で倒れ緊急搬送されたとの知らせです。
水頭症との診断で入院しましたが
精密検査の結果は「脳腫瘍」
患部はそれも視床下部のど真ん中。どんな名医のゴッドハンドでもメスは入れる事の出来ない致命的な部位。
計6回にも及ぶ手術も及ばず倒れてからわずか8ヵ月間の闘病生活で終焉を迎えました。
あの8ヵ月の時間の流れは恐ろしいほど早いものでした。
ちなみに
花屋の私は仕事柄、お客様の慶弔にかかわる場面は当然多い訳です。
その都度お祝いやらお悔やみの言葉をお掛けしていました。
そう
お祝い事はともかく、仏事の当事者のお気持ちも全て理解できているつもりでいたのです。
なぜなら
私も人並に愛する親・兄弟・友人・ペットも亡くしていますから・・
しかし息子を亡くした今回は全く次元が違っていました。
吾子に先立たれる親の辛さは他のそれとは全く比較にならない悲しみだと思い知らされたのです。
「花屋」からの転職を決めたのもこの出来事が引き金になったのです。
35年連れ添っていた妻ともしっくり行かなくなっていた時期も重なり同時に離婚も決意。
そんなこんなで
しばらくは周りからいろんなものが私から離れていく「喪失感」に埋もれていました。
とりもなおさず
それこそ「身から出たサビ」そのものなんですけどね。
さてさて
遠回りをしてしまいましたが、これからが本題です。
息子の49日も過ぎ、少し落ち着いたところで私のリクルートが始まりました。
ところが
50も半ば過ぎ(57歳)のオジサンを使ってくれる職場が全くない驚愕の事実に意気消沈・・・。
試行錯誤の末、現在のタクシードライバーになる道を選んだ訳ですが、選んだと言うよりはぶっちゃけそれしか無かったというのが正直なところだったのです。
ドライバーへの転職当初は冒頭でも述べた通り勝手が分からず、毎日ハンドルを握りながら正に「迷走の日々」が続きました。
しかし何事も継続は力なり!
日ごとにコツを掴み成績は順調に伸びて度々「社長賞」を頂くまでに。
息子たちからは「オヤジ、タクシー業は天職かもね」と言われる事もしばしば・・。
それは誉め言葉として捉えれば決して気分は悪くないけどもそれじゃ今までやってきた花屋の33年間は何だったの?と心境も複雑・・。
とはいえ
このタクドラ業は毎日変化に富み15年の過去を振り返っても1日たりとも判で押したような日は無いのです。
私の後部座席では喜怒哀楽の様々な「人生ドラマ」が夜ごと展開され良くも悪くも刺激的な日々が続くのです。
★そして迎えたコロナ危機
このタクシー業界も例外なく未知なる新型コロナウイルスには逆らえずその期間は低迷に甘んじますがそれも会社の努力と乗務員の協力で克服。
最後のマンボウ(蔓延防止法)を乗り越えて、それからというもの現在はそのリベンジ期です。
なおかつ
コロナ禍での「タクシー需要の減少」からの見切り転職と「高齢ドライバー」の引退で現況のタクシー業界は運転手不足の現状なのです。
そのおかげでしょうか現役のタクシードライバーの収益はミニバブル状態。
とはいえ
お調子者のワタシはもう過去の無謀な「バブル慢心」の轍は踏まず、ゆとりの時間は趣味の「バンド活動」と副業「WEBライター」をこなす至極まっとうで健全な生活を送る毎日です^^
と言った経緯で
ご利用いただくお客様にはややご迷惑なお話ですが今現在のタクドラは「我世の春」にございます。
それでは
ご乗車ありがとうご御座いました。
またのご利用をお待ちしております。
ではまた。