20030226 西海道と地質構造
律令時代$${^{*1}}$$に五畿七道$${^{*2}}$$と呼ばれる行政区画があった。因みにこの行政区画の境界を畿道界という。
何故、この様な行政区画が考えられたのか。都がある畿内に通ずるそれぞれの「道」$${^{*3}}$$を管轄する意味で作られたのだろう。西海道は大宰府$${^{*4}}$$によって管轄されたが、他の道の実質的な行政単位としての機能はなかったとみられている。
気になるのは南海道である。南海道は四国と海を隔てて淡路、紀伊となっている。四国から畿内への道は淡路を通って紀伊に渡るようになっていた。道が元になっている区分だから当たり前といえば当たり前である。こういった陸続きになっていない七道は他にもあった。初期には武蔵は東海道ではなく東山道に入っていた。このため常陸、下総、上総、安房は東海道の飛び地*5になっていた。房総半島から三浦半島に通ずる海路が発達していたのだろうか。八世紀頃に武蔵は東海道に入れられ、地続きとなった。
日本列島の現代地図$${^{*6}}$$を見ると五畿七道は巧く考えられている。律令時代にはこんな地図しかなかった$${^{*7}}$$と思うと、よく考えられたと思う。
日本列島の地質構造図$${^{*8}}$$を見ると四国と紀伊半島は続きになっている。つまり西海道の領域と地質構造が一致しているのである。これは偶然なのだろうか。
自然に出来る道でも現代の高速道路$${^{*9}}$$でも、その経路は元々の地形に左右される。従って地質の分布と七道とが一致することは十分あり得る。
*1 20000724 廃藩置県
*2 神奈川東海道ルネッサンス推進協議会 東海道ってなぜ「海道」と書くのですか?
*3 道 千キロ漫歩:官道~街道~国道
*4 大宰府政庁跡
*5 19991229 飛び地
*6 古代の五畿街道
*7 古河歴史博物館 「拾芥抄」しゅうがいしょう
*8 100万分の1日本地質図,ほか 300万分の1 日本地質図
*9 20021130 第二東名
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