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20040502 文法の意味

 文中で係る言葉が離れていると意味が通じにくくなったり、意味不明になったりする。例えば「宇宙船で木星を周回する衛星へ向かう」という文では、「向かう」に係るのに「宇宙船で」が文頭に来ているため、「衛星が宇宙船で木星を周回している」という意味にも取れてしまう。

 ただし、「衛星が宇宙船で木星を周回している」では文章の意味としては全く成り立っていない。このような文を読む場合、意味として成り立たない解釈は最初から除外して読むことを身に付けているので大抵は問題ない。ところがコンピュータなどで機械的に文を解釈させようとすると、文法と文中の単語それぞれとが正しいとなれば、「衛星が宇宙船で木星を周回するはずはない」という情報がない限り正しい解釈ができない。

 「シソーラスの距離$${^{*1}}$$」という係る言葉の関連性を数値化する考え方を用いれば、こういった紛らわしい文を機械的に的確に解釈することが可能になる。

 文法もそして用いられている単語も正しいのに、文自体に意味がないというのは面白い。例文のように同一文でも解釈によって意味不明になったり意味が出てきたりするのは、考えてみれば不思議である。これは日本語の文法の不完全性からくる現象なのだろうか。

 おそらくどんな言語でもこういった現象は起こりうるに違いない。文を構成して伝えようとする事柄そのものと文法との間には何も関係がないからである。相手に伝えようとする事柄は頭の中で考えたことだから言葉とは関係ないはずだ。伝えるために考えたことを言葉に変えて表現しているのだから語順や活用が間違っていても何とか意思は通じる。文法から外れていると何か変だと思うだけである。

 ということは自然言語$${^{*2}}$$の文法の本質は意思の疎通のためのものではなく、形式美のようなものに思えてきた。例えば「大きな草原にある家$${^{*3}}$$の飼い犬が吠えた」という文では、「大きい」のは「草原」なのか「家」なのか「犬」なのか厳密には判断はできない。通常は直近の「草原」である。しかしそんなことは問題ではない。文を構成する上で伝達される内容を区別する要請はなく、聞いた時の違和感をなくすことだけが文法の役割のような気がする。

*1 20040501 言葉の距離
*2 NICT News
*3 大草原の小さな家

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