20050504 旧東海道を歩く(2)
息子と二人で旧東海道を歩いた$${^{*1}}$$。今川町の芋川うどん発祥の碑$${^{*2}}$$から少し行ったところに洞隣寺$${^{*3}}$$という寺があった。入り口に古くから伝わる物の怪に関する小さな説明看板を見つけた$${^{*4}}$$。妖怪好きの私$${^{*5}}$$としてはこういうものは見逃すわけにはいかない。
「中津藩士の墓」と「めったいくやしいの墓」と書いてある。早速これらを見るために寺の中に入っていた。墓所の入り口にはきれいな看板$${^{*6}}$$が立ててあった。
中津藩士とめったいくやしいとが並んで立っていた$${^{*7}}$$。「中津藩士の墓」のいわれはこうである。寛保二年(1742)六月二十五日に豊前国中津藩の家臣たちが帰国の途中、この付近で突然、家臣の一人の渡辺友五郎が他の家臣の牟礼清五郎に斬りつけ、ついには二人とも死んでしまった。遺骸は洞隣寺に葬られた。
生前、この二人はいがみ合っていたらしい。そのためか並べ立てた墓が知らぬ間に互いに反対側に傾いてしまう。何度直しても傾いてしまうので、その怨念に恐れをなした村人は墓地を整備して厚く弔った結果傾かなくなったという。とは言うものの左側の牟礼清五郎の墓が少し傾いている$${^{*7}}$$のは面白い。それに、何度も傾いたのは地盤が緩かった所為だろう。
中津藩士の墓の横にある背の低い石ころ$${^{*7}}$$が「めったいくやしい」である。これのいわれ$${^{*8}}$$はこうである。容貌は悪いが気だてのよい働き者の娘が医王寺$${^{*9}}$$という寺の僧侶に恋心を抱いた。が、あっさり振られてしまった。娘は片思いのため恋煩いに陥り最後は死んでしまった。亡骸はここ洞隣寺に葬られたが、墓石から火の玉が出たり「めったいくやしい」と声がしたという。
気だてのよい娘が恨みを持つとは余程冷たくあしらわれたからであろう。それにこの現象がなくなってしまったのは時が経ったためだけなのか。誰かが本格的な供養をしたのだろうか。非常に気になる。もしかしたら今でも火の玉が出るかも知れない$${^{*10}}$$。
洞隣寺から離れて知立に向かって行く途中に一里塚の説明$${^{*11}}$$を見つけた。すでにここの一里塚は消失しているらしい。
一里塚はこの看板の横に、四十年ぐらい前から時が止まっている廃屋$${^{*12}}$$が目に留まった$${^{*13}}$$。何となく気になって近寄ってみると柱に「日本傷痍軍人会々員乃章$${^{*14}}$$」というアルミ製の小さな標札を見つけた。傷痍(しょうい)軍人$${^{*15}}$$とは、戦闘で負傷した軍人のことである。これは旧東海道とは全く関係ないが、様々な時代が同居しているようで興味深かった。
*1 20050503 旧東海道を歩く
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*3 洞隣寺
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*5 20030720 加牟波理入道(2)
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*8 KATCHコミュニティ
*9 「愛知県刈谷市高津波町2丁目」付近地図
*10 火の玉・UFO・ミステリーサークル
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*13 遺構探訪
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*15 (財)日本傷痍軍人会
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