見出し画像

20051203 大仏恐怖症

 知り合いの女性が「自分は大仏恐怖症だ」と言う。大きな像が怖いらしい。そんな変な恐怖症は聞いたことがない、と言うとwebで調べるといくらでも出てくるという。

 早速調べてみると、確かに「大仏恐怖症$${^{*1}}$$」で何頁か出てきた。「大仏恐怖症」という言葉自体はそれ程独特ではないらしい。

 幼少の頃に大仏を怖がったと私の両親に聞いたことがある。相当泣き叫んだらしいが、本人はそんなことを全く憶えていない。幼児の頃は「大仏恐怖症」だったようだが、現在は全く恐怖を感じないので、恐怖症の人からすれば克服したことになる。

 ○○恐怖症というのをいろいろ聞いたことがある。高所、閉所、尖端など。これらが怖いと思う感覚をそのままにしておくと何やら落ち着かないので、「〇〇恐怖症」という名前が付いているのだろう。「大仏」も同じに違いない。高所、閉所、尖端などに恐怖を感じるというのは誰にでも多かれ少なかれあるだろう。これらは何れも自分の生命が危険に晒されると考えることができる。おそらく高等な動物以外はこういったことを考えることはできないのではないか。そもそも高等でないと考えるという行為ができないだろう。高いところにいて落ちると痛いもしくは死ぬかも知れないと思い恐怖を感じるのは、一度そう言った経験をして記憶に残っているのでそれが呼び起こされるのだろう。自分たち人間から見て結構下等だと思える亀などは、冬眠すれば記憶が完全になくなってしまうだろう$${^{*2}}$$から、下等生物に高所恐怖症があったとしても一年で解消してしまうに違いない。

 恐怖症の人は実際に生命の危険性が殆どなくても怖いと感じてしまうのである。通常は理性で押さえることができるはずだが、それが効かない。「高いところ→落ちる」も本能ではなくある程度知性が働いているからそう考えるのであるが、通常は更に推し進めて「高いところ→落ちる→でもそんなはずはない」と納得する。ところが何らかの理由でそう考えることができなくなっている。

 「大仏」にはどう言った生命の危険性があるのか。大きなものに襲われるという感覚か。そう考えると高所、閉所、尖端に比べるとかなり水準の低い恐怖症ではないか。大抵の小動物は大きな動物が近づいてくると逃げていく様に思える。これは本能に近い。大仏は動かないと分かっているにも拘わらず恐怖を感じている。

 もしかすると「大仏→動いて襲われるかも知れない」と考えたのか。それならば「大仏→動きだして襲われるかも知れない→でもそんなはずはない」となるのが普通だが、やはり何らかの原因でこうはならないのだろう。

 高所、閉所、尖端は誰にとっても生命の危険性がある。全くないと感じる方がむしろ危険である。ところが「大仏」には一切危険性はない。むしろありがたい$${^{*3}}$$。大仏恐怖症は、通常の社会生活を送るのに弊害となりうる。克服する方法はあるのか。何故怖いかを理解すればいいと思われる。生命の危険性が全くない事柄に対する恐怖なので、「お化けが怖い」とか「ピーマンが食べられない」と同じだろう。つまり幼少の頃の取るに足らぬ経験や記憶に由来するはずである。そうだということさえ理解すれば、簡単に克服できるのではないか。ただし、こういった恐怖症には怖いと思うだけではなく心身の大きな変化が伴う症状がある場合があるらしい。これは大仏が原因ではなくそれによって感じた恐怖そのものが原因だろうから、こういった時はちゃんとした治療が必要なのだろう。

 英語では「megalophobia$${^{*4}}$$」というらしい。「megalo-$${^{*5}}$$」は大仏ではなく「巨大物」である。もしかしたら日本語での「きょだいぶつ」が知らぬ間に「だいぶつ」になってしまったのかもしれない。

*1 "大仏恐怖症" - Google 検索
*2 20050527 人間の冬眠
*3 東大寺
*4 20020715 好き嫌い
*5 megalo-. The American Heritage® Dictionary of the English Language: Fourth Edition. 2000.

いいなと思ったら応援しよう!