20091012 はだしのゲン(2)
「はだしのゲンはピカドンを忘れない$${^{*1}}$$」と言う本を読んだ。「はだしのゲン$${^{*2}}$$」とは、かって少年向け漫画雑誌に連載されていた漫画で、作者自身$${^{*3}}$$の広島での被爆体験を基にして描かれている$${^{*4}}$$。幼少の頃、むさぼる様に読んだ。「はだしのゲンはピカドンを忘れない」では漫画を通じて原爆の恐ろしさ、戦争に対する日本人の認識の甘さ$${^{*5}}$$を一生訴え続けようとする作者の考え方が述べられている。
この漫画に原爆が広島の上空で炸裂した直後$${^{*6}}$$の場面がある。作者自身である主人公のゲンと彼の母親とが、爆風で倒れた家の下敷きになって助けを求める父親、姉と弟を目の前にしても為す術がない。どんどん火が回ってくるので父親は自分達を残して早く逃げろと言うが、母親は「一緒に死ぬ」と言ってその場を離れない。すると回ってきた火が弟、姉、父親の三人を目の前で焼き尽くす。生きたまま焼かれる瞬間、弟は「ギギギ、あんちゃん…」とうめき声を上げる。この「ギギギ$${^{*7}}$$」と言う擬音が強く印象に残っている。
ところが「はだしのゲンはピカドンを忘れない」を読んでみて、前述の場面は、作者の中沢氏$${^{*8}}$$が実際に体験したのではないということを知った。その現場にいたのは、中沢氏の母親のみだったようだ。原爆が炸裂した八月六日午前八時十五分$${^{*9}}$$時点には、中沢氏は小学校(当時は国民学校$${^{*10}}$$)の門に入ろうとしていたところだったらしい。奇跡的に強烈な熱線や爆風を免れ生き残り、何時間探し回ったのかは不明だが、無事母親と再会する。母親はぼろ布に包んだ赤ん坊を抱いて茫然として路上に敷いた布団の上に座っていたのであった。炸裂後の修羅場の中の衝撃で産気付き、路上で赤ん坊を産んでしまっていた。そして数日後、母親の気持ちが落ち着いたところで、父親達のことを聞いて中沢氏は初めて事の顛末を知ったのであった。
*1 はだしのゲンはピカドンを忘れない
*2 汐文社-[愛蔵版] はだしのゲン詳細
*3 中沢 啓治 漫画家
*4 20050719 はだしのゲン
*5 1995 Gen Production - Home of KAK-A 「ぱふ」漫画家訪問-中沢啓治インタビュー
*6 Hiroshima and Nagasaki Remembered: The Story of Hiroshima
*7 戦争を語るブログ : 「はだしのゲン」原画、平和記念館へ
*8 1995 Gen Production - Home of KAK-A 著者・中沢啓治インタビュー
*9 Hiroshima marks anniversary of atomic bomb
*10 学制百年史 [第一編 第四章 第二節 一] 第一編 近代教育制度の創始と拡充 第四章 戦時下の教育(昭和十二年~昭和二十年) 第二節 初等教育 一 国民学校令の公布