Tグループについてのメモ
Facebookに気になるPostがあって、そこへのコメントを書こうと思ったらなぜかそういうときに限ってページが更新されて書こうと思ったPostが消えてしまう…。これは書かないでおけ、というシグナルかとも思うので、全然つながらないであろうところへメモとして書いておくことに‥‥
という前置きをしておいて、何を言おうとしたかというと、今、日本で実施されているTグループはなんだか「形式」にこだわらないでいようとする「形式」にこだわっているような、逆に「形式」にこだわっていながら実はこだわっていないんだけどねと見せているような感じがするということ。
(Tグループってなんなの? というかたは別途ググってみてください。もしかしたら書くかもしれないけれど、それはそれでパワーがいるので)
Tグループに「参加した方」は多分ご存じないと思うのだけれど、その前日から関係者は集まって準備をしています。「会場の設営のことね」と思われるかもしれませんが、それは当日の午前中にしています。
前日にやっているのは、ファシリテーター(トレーナーと言うことが多いようですが)やコファシリテーター、スタッフのチームづくり、そしてその回のTグループで取り上げようとする「狙い」や「目的」づくりです。そもそも参加者を募集する段階である程度決めているはずではあるのですけれど、改めてここで検討されます。というのは募集の時期とは情勢が変わっていますし、実際に関わるファシリテータやスタッフの思いもあります。また参加者からの事前の期待感なども表明されていますから、こうしたことを含めて改めて「目的」や「目当て」(この目的なのか狙いなのか目当てなのかという言い回しから検討しています)を設定します。一語一句に結構こだわります。
そしてその上で5泊6日(あるいは4泊5日、3泊4日‥‥)のおおよその流れを決めます。さらにそのうちの1日目、2日目の内容を決めていきます。3日目以降はどうするのか? それは始まってから決めます。1日目と2日目は決めておかないと準備ができないから決めるのですが、3日目以降は参加者の様子によって変えていくのです。そのために毎日夜な夜なファシリテーターやスタッフはスタッフミーティング(スタミと訳すことが多いようです)を開き、今日1日の参加者はどんな様子であったかを共有し、次の一日はどうするか、誰が担当するかを決め、さらに必要であれば教材などの準備を始めます(なので、ファシリテーターを含めほとんどのスタッフが睡眠不足になります。もう体力勝負で、結構な御年の方がファシリテーターで現役で居続けるというのは、それだけでそりゃぁもう大したもんだと尊敬しています)
さて、このようにTグループはかなり柔軟なものです。どこの主催団体もそうだと思いますが、全体の日程は予め提示しませんし、提示していたとしても「昨年の例」と言うことになっていると思います。実際に始まってみるともっとグループでの話し合いを増やした方が良いこともあれば、全体学習やレクチャーをした方が学びにつながると思われるのでそうしたものを増やすこともあります。そもそも全体学習での素材やレクチャーの内容も定番のものがないとはいえませんが、毎回変わることが前提です。いつもやっているよねというレクチャーは、それが欠かせないと言うよりは、結果的に必要であるからそうなっているということでしょう。
Tグループは歴史的にはかなり古いものです。そして、それを経験して人材育成や組織開発などさまざまな領域で活躍している人が多いのだと思います。ですから、いろいろなワークショップに参加すると「これってTグループっぽくない?」と思うことがちょくちょくあります。
例えばArt Of Hostingもそうで、プレスタミ(前乗りして準備するもの)に該当するものもありますし、参加者の様子を見ながら内容を決めていくところ、時折レクチャーが入るとことろなどは構造としてTグループによく似ています(もちろん内容が違いますから、参加者が体験することも得ることもまったく変わります。まぁそもそも「目的」が違いますからねぇ)
ただ、「Tグループっぽくない?」というのが憚られることが多いように思います。いくつか理由があるかと思うのですが、1つは日本においてTグループは「感受性訓練」という呼び名でかなり厳しいトレーニングに使われた経緯があるからでしょう。念のために書いておきますが、「感受性訓練」も誤解されていると思います。「これはいい」と思った方が、「なぜそれが良いのか」とか「そういう結果になるのはどのような過程、要素があったからなのか」とかといったことを十分に検証せずに形式的なところ(たとえばレクチャーの内容とかカリキュラムとかファシリテーターの特徴的な言動)だけを真似て実施してしまったことが原因ではないかと思っています。もちろんその当時のことを知っているわけではないので推測ですけれど。
もう一つはもっと簡単な話で、後発のものは先発するものと差別化せざるを得ないということかと。新しいものを目にすると(耳にすると)、それがどのようなものかを理解するために近しい先行例を引き合いに出そうとします(タピオカを初めて見る人に「これはつぶつぶになった硬めの寒天みたいなもんですよ。いやわらび餅かな」と説明すればなんとなく分かって貰えるようなもんです)。引き合いに出すと次に聞かれるのは「どう違うか」ということです。同じもんなら必要ないですから。この違いを強調するには先行するものの弱点を指摘し、勧めようとするものの良さを説明するに限ります(わらび餅はこんなに小さくならないしそこで固まっちゃうでしょ。タピオカはそんなことないし、グミのような食感もあって食べ終わったときの満足感も高いんですよ、みたいな)。つまり、先行するTグループは悪く言われる宿命にあるわけです。これに、前述のイメージがあるものだから「あんなとんでもないものじゃないですよ」という文脈で語られてしまうわけです(かわいそうに)。
そしてその反動としてTグループの方は自己の正当性を謳わねばならないことになります。その時、どうしても「本来は‥‥」ともともとの形に戻ってしまうんでしょうね。もともと良いものではあるわけで、そこを新たに出てきたものと対比して説明しようとすると、本来持っている良さを説明するのが筋ではありますから。
では、本来持っている良さというのは何なのでしょう? その辺りを確認しておくことがTグループには必要なのかと思います。その良さを生んでいるものの中には「形式」として残っているところもあるでしょうし、「考え方」として残っているところもあるでしょう。
ただ、そこに目を向けるにはTグループに参加するだけではなく、スタッフをしてみないと分かりづらいという点もむずかしいところなんでしょうねぇ‥‥
締まりのない終わり方で申し訳ない‥‥