「創作者」の呪い
私は創作者だ。
と言っても、別に凄い人ではない。
適当に書いていた小説が、たまたまネットサーフィンをしていた人に見つかっただけ。
適当に作っていたゲームも、まぁまぁダウンロードされて、それで感想をもらったことがある。
もちろんお金は稼げなかったし、大人気作者というわけではなかった。
でも、間違いなく(少数だが)ファンは居たし、感想をもらったとき、とても嬉しかった。
創作するのを辞めるほど、忙しくなった。
創作が苦しくなったわけではない。仕事が忙しくなった。余暇時間は、VTuberを見るようになった。ただそれだけだ。
しかし。
VTuberを見てゲラゲラ笑っていると、ふと思うのだ。創作しないでいいのか?と。
無為な時間を過ごしているような錯覚に陥る。
なぜなんだ。
もちろん、VTuberと過ごした時間はホンモノだし、否定できるものではない。
だが。頭をもたげてくる。ささやいてくる。俺の心に響いてくる。創作しろ、創作しろ。お前の居場所はここじゃない。そんな俺の第二の人格が、耳元でささやいてくるのだ。
俺は創作物を完成させた「実績」がある。そして、多少感想をもらった「成功体験」がある。どちらも中途半端なものだけど、これが厄介なのだ。
「創作することができた」という体験は、その人に十字架を背負わせるのだろうか。
創作を完成させることができた人間は貴重だ。多くの挫折した人間の屍の上に、自分が立っていることに気づく。そう思うと、より一層、自分の中の使命感のようなものが、うずく。
中途半端に成功した体験があるがゆえに、俺の中の第二の人格が俺にささやくのだ。お前は創作する側の人間だろう、時間を無駄にするなと・・・
創作して、その感想をもらい、チヤホヤされたいだけだろう?そう思うこともあった。もちろんチヤホヤされることは悪いことではないのだが。
しかし最近になって、旅行に行き、PCの前でぼうっと動画を見るのを断食することがあった。
帰ってきてから思った。あぁ、創作してえ。何か作りてえ。
その瞬間、わかった。別にチヤホヤされたいわけじゃない。俺はただ、作りたいだけなんだ。創作すること、それ自体が目的なんだ。
創作をすると、創作ができる人間と、挫折してしまう人間がいる。俺はありがたいことに、前者になれた。
だが、創作を完成させてしまうと、今度はそれが十字架になるのだ。
あぁ、創作がしたい。創作が唯一の、俺の心の安寧なのだと。
松尾芭蕉が旅の虜になってしまったように。
創作ができるゆえに、いつの日か、創作することが使命になってしまった。
あぁ、創作がしたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?