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はらはら、しんしん
昨日の朝に春の気配を感じたと思ったら、その夜には冬の始まりのような粒の大きな雪が空に舞った。
パラシュートのように空気の抵抗を受けて、はらはらと静かにゆっくり落ちてくる。スーパーから漏れるライトに照らされて舞う雪を下から見上げると、
なんともいえない気持ちになる。いい意味で。
(時間の流れが遅くなる+ホッとする+きれい+少しの間それしか目に入らない+幻想的)÷5=なんともいえない気持ち
というかんじかしら。
雪はしばらく降り続き、寝静まった街にしんしんと降り積もる。先日の大雪の除雪が進み、ようやく走りやすくなった道のアスファルトが、また白く染まっていく。
雪が降り積もった夜、月明かりが少しでも地上に届くと、その明かりは雪に反射して、あたりはぼんわりと青く照らされる。
雪が無い夜には見られない、幻想的で静かな景色だ。
雪が降りやみ、雲が切れて、月明かりが漏れ照らされる雪景色の美しさは息を吞むものだ。
何度か、その光景に出会ったことがある。旅先や特別なイベントなどで見たわけではない。日々の暮らしの中の、ふとした瞬間だ。
周りに何もなく誰もいないとひたすら静かで、そこには、その光景と自分しかいない。そういう時、”人はこういう光景を目にした時に神の存在を感じるのかもしれない”とふと思ったりもした。神々しいという言葉はこういう光景を表現するものでもあるのだろう。
ところで、「はらはら」や「しんしん」とは、いつだれが言い出したのだろう?
いや、語源を知りたいわけではないのだ。それこそChat GPTに聞けば”諸説”が出てくるだろうけど、そういうことじゃない。
その表現のきれいさ、やさしさ。初めてそう表現した人の心情は、なんていうかとても豊かだったのではないかと思う。
目の前の、その日常の景色を静かに深く味わっていたのではないかな、とそのだれかの心情を想像してみる。
ところで、自分はなぜ毎日なにかを書いているのだろう?とたまにふと思う。
この文章も、平たく言うと「昨晩、雪が降った。」というだけの話だ。
だれに書くことを約束したわけでもない、日々の徒然である。
目的は無い。書くこと自体が目的であるというのが一番近いかもしれない。し、そもそもあまり「目的」という言葉もここでは使いたくないな、と、ふと思った。「そうしたいからそうしている」でいいのだと思う。
そして、書いている内に記憶から引き出されるものもある。タンスの引き出しにしまったまま忘れていたきれいなものを、ふと久しぶりに見つけるようなものだ。今日書いた”以前見た雪景色”なんかはまさにそれだ。
砂浜できれいな貝がらを拾い上げるように、川原で変わった形の石を拾い上げるように、目の前にあるものを丁寧に味わえる感性を持っていたい。漠とした目線でぼんやり見ても何も見つからないだろう。
ひたすら走る世の中で、そのスピードにあおられて、よそ見もできないような走り方でなくて、自分の足で自分の心地よい速度で歩きたい。そんなことも思っているのかもしれない。