鑑賞者を置き去りにする映画であれば、それはすごく観てみたい。
小説を読むときは、文章から風景を想像しながら読んでいる。
そのためおもしろかった小説は特に、自分が想像した世界を壊されたくない気持ちが強く、たとえ小説が映画化されていても、予告などを見てなんか違うと感じたら、映画は観ないでおこう。となる。
そういうスタンスでいると、あるとき「映画は映画でまた違う良さがあるよー」と教えてくれた人がいて「そうか、まったく別物と割り切ればいいんだ。」と納得しつつ、好きな作家である伊坂幸太郎作品を観てみた。
だけどやっぱりうまく割り切ることはできずに、小説のほうが好きだなと強く思ってしまった。
おそらく伊坂幸太郎の作中に出てくる人たちは、しばし現実世界の人たちが言わないような言葉を、さも自分がもっとも言うに相応しい人物であると確信をもって言い放っている。
そして、その自信と言葉に不思議と引き付けられる魅力や夢が詰まっているんだけど、その世界観を映像にしてしまうと、こんな言葉を恥ずかしげもなく自信満々に言い放つ人は、世の中そうそういないよな。と文章では引き付けられる言葉の数々もセリフになったとたんに違和感がにじみ出てしまう。
もしかすると文字だけの世界だからこそ、成り立つ言葉もあるのかもしれない。
その一方で、この本は映画化してほしいと思う好きな本もある。
この前たまたま小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』を見かけて、はじめて読んだ中学生のときを思い出しながらパラパラと読み返してみたけど、すごくよかった。
もしもこの小説が映画化されるなら、変に小説の世界観を再現するためのCGとか最新の技術とかはあまり使ってほしくなくて、淡々とチェスを指す主人公とその友人たちだけが『見えている風景』が『見えていない』僕らでありたいと切に願います。
この書籍は、水面にポチャンと一滴、雫が落ちて、そこから波紋がゆっくり大きく広がった後に、やがてまた静けさだけが残るような魅力があり、これから梅雨の時期にぴったりな一冊なので興味がある人はぜひ。