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自由民権運動・・・忘れ去られた議員の使命③
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こんにちは!
「全ての増税に反対」する、にいがた減税会のざっきーです!
前回の記事の続きとなります。
前回のあらすじ
日本で始めての国会が開かれ、国民の負担を軽くするために、減税をし行財政を整理しようとしていた民党と、清やロシアなどの脅威に備えるために、増税をして軍備を拡張したい政府が激しく対立しました。
第四回帝国議会で、明治天皇の和衷協同の詔書により、民党は妥協し予算案を成立させました。
民党の「民力休養・政費節減」という姿勢が増税をさせずに、政府に節約させ軍艦を作らせるという結果に至ったのでした。
日清戦争と三国干渉
日本と清の朝鮮をめぐる争いが激化し、1894年7月、日清戦争が勃発します。
日本は日清戦争に勝利し、清から賠償金と遼東半島と台湾を獲得しました。
その後、ロシアはフランス、ドイツを誘い、日本に「遼東半島を清に返還しろ。」と圧力を掛けます。(三国干渉)
(三国干渉の黒幕はドイツで、当時のドイツ皇帝であったヴィルヘルム2世は、白色人種に対する黄色人種の脅威を訴えていました。(黃禍論)
ドイツはこの黄禍論を方便にして、ロシアを東アジアに目を付けさせ、既に東アジアに進出していたイギリスとの対立を煽り、両国の国力を削ごうと考えていました。)
結局、日本は圧力に負け遼東半島を返還することとなります。
日本はロシアという新たな脅威に対処しなければならなくなりました。
内閣と政党の提携
第2次伊藤博文内閣(1892年8月~1896年9月)
ロシアの脅威が近づいていることもあり、政府は軍事費を増やしたいと考えていました。
ただ、民党の協力が無いと軍備拡張の予算が衆議院で通らないため、政府は自由党に協力を持ちかけ、自由党の板垣退助を内務大臣として政府に迎え入れることを条件に、予算成立に協力してもらいました。
政党と協力することについて、政府内部では意見が割れていました。山縣有朋は「政党と提携するべきではない。」と考え、松方正義は「大隈重信(改進党系)と提携すべき。」と考えていました。
このように政府内部で分裂が起き、伊藤はこれ以上の政権維持は難しいと考え辞任しました。
第2次松方正義内閣(1896年9月~1898年1月)
松方は大隈を外務大臣とし、1896年に結成した進歩党(改進党系)と提携しました。
しかし、増税するかしないかで松方と大隈は対立します。
松方が増税したいと言うと、大隈は「増税で収入を増やすことよりも、節約で支出を減らすことが先だ。」と反論しました。
結局、この問題が解決できなかったため、進歩党と松方内閣の提携は終わります。
そのまま議会に入りましたが、増税を巡って政党と対立し、自由党が内閣不信任案を提出したことをきっかけに、松方は衆議院を解散し、総辞職しました。
憲政党の誕生
第3次伊藤博文内閣(1898年1月~1898年6月)
松方が辞職した後を伊藤が引き継ぎました。
伊藤は政党の力を認めていたため、自由党と進歩党に協力を求めましたが、両者ともに増税反対を掲げていたため提携できませんでした。
議会で伊藤内閣はロシアに備えるための増税案を提出しますが、衆議院は247対27という圧倒的な票差で増税案を否決しました。
これを受けて、伊藤内閣は衆議院を解散します。
このとき、自由党と進歩党は歴史的な分裂、対立を乗り越え、憲政党という政党で1つにまとまります。
選挙では、憲政党が300議席中244議席を獲得する大勝利となり、政府はピンチになりました。
こんな状況では、政府内で誰も総理大臣をやりたがらなかったので、大隈と板垣に内閣を組閣してもらうことになりました。
第1次大隈重信内閣(1898年6月~1898年11月)
次の内閣では、首相に大隈、内相に板垣が就任する内閣が誕生します。日本初の政党内閣が誕生することとなりました。
しかし、大臣職を巡る争いが旧自由党系と旧進歩党系の間で起こります。
当時文部大臣であった、旧進歩党系の尾崎行雄が金権政治を戒める意味で「仮に日本が共和制だったら、三井や三菱が大統領候補となるだろう」と演説しました。(共和演説事件)
この発言に対し、旧自由党系の人たちが、「日本が共和制になるなんて、例え話でもけしからん」「不敬である」などと批判し、尾崎は辞職に追い込まれます。
文部大臣の後任を巡って、旧自由党系と旧進歩党系の人たちの争いが激化し、結局、憲政党は分裂してしまいます。
当時の旧自由党系の指導者であった星亨が新しく別の憲政党を結成しました。それに対抗して、旧進歩党系の人たちは「俺たちが本物の憲政党だ!」ということで、憲政本党を結成しました。
このような大臣職を巡る争いにより、第一次大隈内閣は総辞職し、日本初の政党内閣はたった約4ヶ月で幕を閉じました。
増税議員誕生
第2次山縣有朋内閣(1898年11月~1900年10月)
政党だけではまだ政権を担当できないことが明らかになったため、再び藩閥勢力による内閣が成立します。第2次山縣有朋内閣が誕生します。
山縣はロシアの脅威に対抗するためには、軍備を拡張する必要があり、その費用を捻出するためには、増税する必要があると考えていました。
増税するためには、政党に協力してもらい衆議院を通す必要があります。
そこで、山縣は憲政党の指導者であった星亨に接触します。
山縣は「議員の給与を上げても良いから、地租増税に賛成して欲しい。」と星に持ちかけました。星はこの提案を受け入れました。
この取引に憲政本党や憲政党内の一部議員や反対し、地主の多い地域の有権者が増税反対運動を起こしました。
しかし、星に説得されて増税に賛成する議員が出てきたり、党議拘束を理由に賛成する議員がでてきたため、第13回議会の12月20日に増税案が衆議院を通過、27日に貴族院を通過したため、増税案が成立してしまいました。
この増税案により、地租が2.5%から3.3%になり、その見返りとしての議員給与は年額800円だったのが2000円となり、議員の報酬が2.5倍増えることになりました。
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このように憲政党(自由党系)は自由民権運動のときから訴えていた、地租軽減の旗を降ろし、増税政党へと成り代わったのでした。
立憲政友会の誕生
山縣は政党を嫌っていました。そのため、政党の人間が政府に入るのを防ごうと考え、文官任用令を改正します。これにより、試験を受けなければ偉い役人にはなれなくなりました。
これに対し、憲政党は反発し、政府との協力を解消します。
その後、憲政党は伊藤と手を組もうと考えていました。星は伊藤に対し、「憲政党の党首にならないか?」と誘いますが、伊藤はそれを断り、自ら政党を結成しようとします。それを受けた憲政党は「伊藤が新政党を作るなら、憲政党は解散して、伊藤の作った政党に集まろうと」決めます。
こうして憲政党は解散し、伊藤博文が総裁となって立憲政友会が結成されました。立憲政友会は、憲政党(旧自由党系)の人たちと、伊藤が連れてきた官僚が集まってできた政党でした。
立憲政友会は、税金により鉄道敷設や港湾の修築などを積極的に行い、地方の有権者に利権をバラマキ、支持を増やしていきます。
憲政本党も増税政党へ…
第4次伊藤博文内閣(1900年10月~1901年6月)
立憲政友会が結成から2週間も経たないうちに山縣有朋は内閣を総辞職します。山縣はこのまま時間が経つとレームダックになってしまうと考え、余力がある内に辞めて、政党内の準備が出来ていない伊藤に首相を押しつけて嫌がらせしようとしました。
1900年(明治33)に立憲政友会を母体として第4次伊藤内閣が誕生します。
第4次伊藤内閣は北清事変(義和団事件)関係の軍事費を増税で賄おうとしました。
これに対し、政友会は一部議員が反発しましたが、最終的に賛成します。
憲政本党はこの増税案を巡り賛成派と反対派で揉めることになります。
憲政本党は、第2次山縣内閣の増税に対して、増税反対運動を展開していました。増税案が議会を通過し、増税が決まった後も全国各地で大隈重信を先頭に立て、演説を行い減税を訴えていきました。減税をスローガンにした運動は地主が多かった新潟県などの一部地域では反響がありましたが、全国的には期待した反響が得られませんでした。憲政本党は東京市議会議員選挙で敗れ、勢力は衰えてきていました。
そうした影響もあり、減税よりも外交問題を訴えたほうが憲政本党の勢力拡大に繋がるのではないか。との意見が力を持つようになっていきました。
憲政本党内の第4次伊藤内閣の増税案についての議論は増税反対派が最初は優勢だったものの、大隈が増税賛成の演説を行ったため、増税反対派は勢いを失い、憲政本党は増税案に賛成の立場をとることになりました。
増税に反対した議員たちの中には脱党する人も現れました。
このような経緯があり、議会で政友会と憲政本党が賛成に回り衆議院を通過し、貴族院でも通過したため、増税案は成立しました。
こうして憲政本党(改進党系)も自由民権運動のときから訴えていた地租軽減の旗を降ろし、増税政党になったのでした。
まとめ
今回は日清戦争後の国政の動きを見てきました。当初は減税を訴えていた議員たちが、政府に買収されて増税を容認したり、減税では選挙に勝てないと考え、減税を訴えるのをやめて増税を容認するようになってきました。
こうした歴史を鑑みるに、減税を訴える有権者が常に居続けないと議員は減税を訴えるのをやめてしまうし、簡単に増税を容認してしまう生き物なのだと思いました。
現在でも、政治家は増税ばかり訴えているので、我々有権者が自由民権運動の歴史を知り、減税の声を上げ続け、政治家の本来の使命である「減税をし、国民の生活を楽にする。」ということを政治家に思い出させる必要がありそうです。
参考文献
世界一わかりやすい日本憲政史 明治自由民権激闘編 倉山満(著) 徳間書店
自由民権運動史への招待 安在邦夫(著) 吉田書店
近代日本地方政党史論 阿部恒久(著) 芙蓉書房出版
日本史 日清戦争後経営 https://chitonitose.com/jh/jh_lessons125.html
【明治時代】226 日清戦争後の日本【日本史】https://www.youtube.com/watch?v=5Q6_3mzutzs
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