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カールマルクスが渋谷に転生した件 36 木下、たまには報われたい(後)

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マルクス、真っ当

「待て」
マルクスが突然、深刻な表情で言う。
「一つ重要な問題がある」

「はい?」
熱心に図を描いていた木下と堅木が振り返る。

「我々自身もまた、このデータとアルゴリズムに介入できてはならない」
マルクスの声には、珍しく厳格さが混じっている。

「え...?」木下が驚いた表情を見せる。

「歴史から学んだことだ」マルクスが髭を撫でながら説明を始める。「どれほど崇高な理想も、権力を握れば腐敗する。データという力を持てば、我々もまた...」

「なるほど」
堅木が静かに頷く。
「中池さんも、最初は理想に燃えていたはずなんです。でも、データを思い通りに操れることに気づいて、次第に...」

「その通りだ」
マルクスが立ち上がる。
「我々は新しい独裁者になるのではなく、誰も独裁者になれないシステムを作らねばならない」

木下の目が輝く。
「そうか...完全な透明性と、権限の分散化...」

「じゃあ、こういう設計はどうでしょう」
木下が新しい図を描き始める。

「まず、全てのアルゴリズムの変更履歴を公開。誰が、いつ、どんな変更をしたのか、全て追跡可能に」
一つ目の円を描く。

「それに加えて」堅木が立ち上がり、マーカーを取る。
「データの分析結果も全て公開。私たち運営側が何を見ているのか、常に透明に」
二つ目の円を描き足す。

「でも」さくらが首を傾げる。「それだけじゃ、見られてるってわかるだけで...」

「そこで」木下の目が輝く。
「重要な変更には、ユーザーコミュニティの承認が必要というのは?マストドンのように、各インスタンスがそれぞれ...」

「ごめんなさい」さくらが手を挙げる。「また難しい言葉が」

「ああ、つまり...」
木下が図を描き直す。
「アプリを使う人たちが、小さなコミュニティを作れる。そして各コミュニティが、自分たちのルールを決められる」

「それこそが」マルクスが満足げに頷く。「真の意味での民主主義というものだ。中央集権的な権力ではなく、人々による自治を」

「技術的には結構大変になりますけど」
木下が頭をかく。

「手伝います」
堅木が真剣な表情で言う。
「私のデータ分析の知識も、きっと...」

「ふむ」
マルクスは深く考え込みながら、木下と堅木が描いた図を見つめている。

「かつて私は、工場という物理的な生産手段から、労働者を解放しようとした」
彼は静かに言う。
「だが今や、コードという目に見えない生産手段にも、同じことが必要なのだな」

「はい」木下が頷く。「でも今回は、単なる解放じゃない。新しい形の共有と...」

「自治ですね」堅木が言葉を継ぐ。
二人の視線が重なり、微かに頬が染まる。


木下、報われる

「さて」マルクスが立ち上がる。「もう深夜だ。私は先に休ませてもらおう」
彼は意味ありげな微笑みを浮かべる。
「若い者たちで、続きを話し合うといい」

「私も」さくらが慌てて立ち上がる。「明日早いので...」

「え、あ、はい」木下が慌てて送ろうとする。
「いいえ、そのまま作業を」さくらが笑顔で制する。

部屋には木下と堅木が残される。
青白いモニターの光が、二人の横顔を照らしている。

「あの」
「えっと」
同時に声を上げ、二人は思わず笑う。

「やっぱり、私たちにしか作れないものがありますよね」
堅木が静かに言う。

「ええ」木下も頷く。「技術者として、そして...」
言葉が宙に浮く。

カタカタとキーボードを打つ音だけが、静かな部屋に響く。
が、どちらも画面に映る文字が目に入っていないことは明らかだった。

「あの」
珍しく木下から切り出す。
「もう遅いですけど...その...お腹、空いてません?」

堅木が少し驚いた表情を見せる。
普段内向的な木下からの誘いは、意外だった。

「実は」木下が急いで付け加える。「駅前に、24時間営業の定食屋があって。プログラマーの間で密かな人気店というか...」

「行きましょう」
堅木が思わず声を弾ませる。
「私も実は、お腹が...」

「よかった」木下がホッとした表情を見せる。「実はもう、カップラーメンでもいいかなって...」

「私もです」堅木が笑う。

二人は慌ててモニターの電源を落とす。

窓の外では、渋谷の夜景が煌めいていた。
そこには無数のデバイスが繋がり、データが行き交う。
だが、その風景は二人には違って見えていた。

抑圧の道具ではなく、解放の可能性として。
新しい連帯の基盤として。
そして今夜は、特別な輝きを持って。

「明日も、コード書きますか」
堅木が微笑む。

「はい」
木下も笑顔を返す。
「こっちです」

街にでた二人の後ろで、離れの明かりが消える。
デジタルの夜は、新しい物語の始まりを見守っていた。


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