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漫画名言の哲学 -のだめカンタービレとエピクロスに見る、「楽しい日本」-

先日、石破首相が掲げた「楽しい日本」というスローガンが不評らしい。
「強い日本」を目指すべきだという反論や、経済成長の実現こそが先決だという意見が目立つ。
自民党の信頼は失墜したし、生活が上向く兆しも全く見えないので、確かにこの状況は理解できる。

しかし、あえて言おう。
私は良いスローガンだと思う。


僕らは疲れた

断っておくが、私は特に自民党支持者ではない。左派的な思考を持っているが、共産党支持者というわけでもない。
強いて言うなら小説で描いた、マルクスの共創思想に共感を覚える程度だ。少なくとも、もう少し平等で平和な世の中にはなって欲しいとは願っている。

その上で言おう。「強い日本」「豊かな日本」という言葉は、すでに私たちの多くが疲れ果てている。GDP、経済成長率、一人当たり所得...たとえ数字は上がっても、人々の表情は曇るばかりだ。
効率が上がっても労働時間は変わらず、働けど働けども楽にならない。効率や生産性を追求する社会の中で、私たちは何か大切なものを置き忘れてきたのではないか。

そんな時、ある漫画の中の言葉が、私の心に響いた...


マエストロの「楽しさ」

その言葉というのが、「のだめカンタービレ」に登場する指揮者、フランツ・フォン・シュトレーゼマンのこの言葉だ。

「さあ、楽しい音楽の時間デス」

二ノ宮知子著「のだめカンタービレ」

シュトレーゼマンは、作中で超一流の指揮者として知られる。一見していい加減そうな男だが、音楽に関しては実にストイックである。その指導は時に厳格で、技術的な完成度を徹底的に追求する。
しかし彼は、その先にある「楽しさ」を決して忘れなかった。 

エピクロスの「楽しさ」

この「楽しさ」という概念について、古代ギリシャの哲学者エピクロスの思想を借りて考えてみたい。
古代ギリシャの哲学者エピクロスは、「快楽」について深い考察を残した、「快楽主義」の思想家として知られる。

「快楽主義」なんて聞くと、多くの人はエピクロスの思想を誤解するかもしれない。しかし彼の説く「快楽」とは、その場限りの享楽ではない。むしろ、深い知恵と理解に基づいた、持続的な喜びのことを指している。

エピクロスは快楽を「動的快楽」と「静的快楽」に分類した。前者は飲食や娯楽による一時的な喜びであり、後者は不安や欲望から解放された心の平穏を指す。彼が最も重視したのは、この「静的快楽」だった。


堕落ではない「楽しさ」

「楽しさ」と言う言葉を誤解してはならない。
「今が楽しければ良い」、「楽しくなければテレビじゃない」、こうした言葉は、「楽しさ」を矮小化している。まるで「楽しさ」とは、規律や向上心と相反するものであるかのように。

しかし、シュトレーゼマンとエピクロスが示す「楽しさ」は、全く異なる次元にある。

それは心の平穏を求め、その実現のために日々前進していく姿勢そのものだ。技術を磨き、理解を深め、より高次の喜びを追求する。
「のだめ」の音大生達のように、時には同じフレーズを何度も繰り返し、音の配置に悩み、表現の深さに苦しむこともあるだろう。
しかし、その試行錯誤の過程自体が「楽しい」のであり、心の平穏に繋がっていくのである。一つの曲を完璧に演奏できた時の喜びは、単なる達成感を超えた、深い充実感をもたらす。

エピクロスの説く「快」が深い知恵と共にあるように、真の「楽しさ」は向上心や探究心と決して矛盾しない。むしろ、それらは互いを高め合う関係にある。

だからこそ「楽しい日本」という言葉には、希望がある。それは単なる享楽や現状維持の肯定ではない。
不安と焦りから解放され、なお前に進もうとする社会の姿を示している。「強さ」や「豊かさ」は、その過程で自ずと得られるものなのかもしれない。

エピクロスは言う。本当の幸福とは、不必要な欲望や不安から解放された状態にこそ生まれると。
その意味で、シュトレーゼマンの「楽しい音楽の時間デス」という言葉は、現代社会に深い示唆を与えてくれる。

私たちに必要なのは、より強くなることでも、より豊かになることでもない。本当の意味での「楽しさ」を取り戻すことなのだ。​​​​​​​​​​​​​​​​


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