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カールマルクスが渋谷に転生した件 2 マルクス、バイトする
マルクス、コスプレと勘違いされる
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雨脚が強まる渋谷の街。マルクスは渋谷109の軒下に避難していた。派手な電光掲示板が放つ光の中、通り過ぎる人々は時折、彼の特徴的な髭面を見ては足早に離れていく。
「あの、傘、使いますか?」
声をかけてきたのは、紫がかったブラウンの髪を持つ女子大生だった。最初は怪しい外国人だと警戒していたようだが、この髭面の男性の立ち居振る舞いに、どこか知的な雰囲気を感じたのかもしれない。
「ありがとう、若き同志よ」マルクスは穏やかに微笑んだ。
「同志...?」さくらは少し引きながら、じっとマルクスの姿を観察した。
「もしかして、マルクスのコスプレですか?すごく似てますけど」
「コス...プレ?」マルクスは初めて聞く言葉に首を傾げる。
「ほら、カール・マルクス。髭とか雰囲気とか、そっくりですよ。私、社会学専攻なので...」
「おや」マルクスは突然真剣な表情になった。「君が私の...いや、マルクスの理論を知っているというのか?この極東の地で?」
「当然です。『資本論』はゼミで読まされましたよ」さくらは少し得意げに答える。「特に商品の物神性とか、現代にも通じる部分が...」
「なんと!」マルクスは思わず声を上げた。「私の理論がここまで...これはエンゲルスに報告せねばならん...いや、その前に...」
さくらは、この変な外国人が見せる喜びと困惑の入り混じった表情に、どこか愛嬌のようなものを感じ始めていた。
「あの、本当にコスプレじゃないんですか?」
「実は私こそが...」マルクスは言いかけて口ごもった。あまりに突飛な話だ。信じてもらえるはずがない。しかし、この若い学生の真摯な眼差しに、話してみる価値があると感じていた。
マルクスは静かに自分の話を始めた。1883年のロンドンでの最期、そして気がつけば2024年の渋谷にいたことを。
「信じられないですよね」マルクスは苦笑いを浮かべる。「私自身、未だに状況を把握しきれていない」
さくらは黙って話を聞いていた。常識的に考えれば、ただの物好きな外国人か、どこかの変人に違いない。しかし、彼の語る言葉の端々に、教科書で読んだマルクスの思想が確かに息づいていた。
「じゃあ、これを見てどう思います?」
さくらは自分のスマートフォンを取り出した。
マルクスは不思議そうにそれを覗き込む。
「これは...?人々が夢中になっている光る板か」
「スマートフォンっていうんです。今や生活に不可欠なものですけど...」
「ほう」マルクスは興味深げに観察する。「まさに現代の物神性の象徴というわけか。単なる機械に過ぎないものが、人々の生活を支配している...」
「私もそう思うんです。でも、これがないと、バイトも、学業も、おばあちゃんの介護だって...」
「介護?」マルクスは興味を示した。
さくらは少しためらいながら、自分の状況を説明し始めた。大学に通いながら、祖母の介護をし、アルバイトで生活を支えている。いわゆる「ヤングケアラー」という立場だという。
「現代の若者は、新たな形の搾取に直面しているというわけか...」
マルクスは深く考え込んだ。
「あの...もしよろしければ」さくらは決心したように言った。
「私のバイト先のコンビニで働いてみませんか?外国人の方も募集してるんです」
「労働...か」マルクスは眉をひそめた。「私は本来、資本主義的な賃労働に加担するつもりは...」
「でも、お金がないと何も始められないでしょう?」
「...皮肉なものだ」マルクスは苦笑する。「資本主義を批判するために、まず資本を手に入れねばならないとは」
雨は依然として降り続いていたが、二人の間の警戒の壁は、少しずつ溶けていっていた。
マルクス、労働者になる
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「いらっしゃいませー…」
マルクスは慣れない声を絞り出した。コンビニのレジに立つこと3日目。黒いフロックコートは会社指定のポロシャツとエプロンに替わり、髭は衛生管理の観点からマスクで覆われていた。
「こちらポイントカードはお持ちですか?」
「あっ、Tポイントカードで...」
「すみません、まだそのボタンの操作が...」
レジ横で待機していた店長が素早く操作を代わる。マルクスは、この複雑な機械と格闘しながら、現代の労働の特質について考えを巡らせていた。
『かつての工場労働者は、少なくとも自分が何をしているのか理解していた。しかし今や、労働者はボタンを押すだけ。その意味も、背後のシステムも理解できないまま...』
商品の陳列作業に移ると、さらに別の発見があった。棚に並ぶ商品の多くは、実質的な使用価値をはるかに超えた価格が付けられている。特に「プレミアム」と称される商品群は、その最たるものだった。
「マルクスさん、あのー」
さくらが声をかけてきた。
「商品の向きが全部違ってます。フェイシングって言って、こう、前に向けて...」
「ああ、すまない」マルクスは我に返る。「ところで聞きたいことがあるんだが、なぜ同じコーヒーなのに、こちらは通常の倍以上の価格なんだ?」
「それはプレミアムブランドだからです。商品に "物語" があるんですよ」
「物語?まさに物神性の...」
その時、店内の防犯センサーが鳴り響いた。出口付近で、一人の少年が何かを服の中に隠そうとしていた。
「万引きですね」さくらが溜息をつく。「警察呼びますか?」
「待ってくれ。私が話をしてみよう」
マルクスはゆっくりと少年に近づいた。少年の手には、「一番くじ」と書かれた箱から取り出されたフィギュアが握られている。
「これは...なんという商品なのだ?」
「...『魔滅の刃』のフィギュアです。くじの景品として、店頭に展示してあるんですよ。普通はレジに隠しておくんですけど、店長が飾りたいって…」
少年は震える声で答えた。
「プレミアなんです。これ一個が転売サイトで何万円にもなって...」
「なんと!」マルクスは驚愕する。「たかがプラスチックの造形物が、労働者の一週間分の賃金にも相当する価値を持つというのか?」
少年の目には、商品に対する異様な執着と熱が宿っていた。そこにマルクスは、現代の物神性の本質を見た。人々は商品そのものではなく、その商品が持つ社会的価値に取り憑かれている。
「若き同志よ」マルクスは静かに、しかし力強く語りかけた。「君は今、資本主義が生み出した幻想に囚われているのではないか?本当に大切なものが見えなくなっているのでは?」
少年は一瞬固まり、そしてゆっくりとフィギュアを棚に戻した。
「価値というものは、本来...」
マルクスが語りかけようとした時、少年は既に店を飛び出していた。
「マルクスさん」さくらが近づいてきた。「最近このフィギュア目当ての万引きって多いんです。転売ヤーが後ろで糸引いてることも...」
「なるほど」マルクスは深く考え込んだ。「商品は、もはや使用価値さえも超越し、投機の対象となっているというわけか...」
マルクス、ついに給料をもらう
初めての給料日。マルクスは電機店の前で立ち止まっていた。
「これが、スマートフォン...」
「どれにします?」さくらが隣で説明する。「格安SIMなら、月々の支払いも...」
「月々の...?」マルクスは眉をひそめた。「まるで永続的な債務契約のようだな」
「でも、これがないと現代では...」
「わかっている」マルクスは覚悟を決めたように言った。「資本主義を理解し、それを超克するためには、まずはその内部に入り込まなければならない」
30分後、マルクスは人生初めてのスマートフォンを手にしていた。画面に映る自分の姿を見つめながら、彼は呟く。
「これが21世紀の生産手段というわけか...」
その夜、ゲストハウスの一室で、マルクスは新しいスマートフォンのメモ帳に記していた。
『現代の労働者は、テクノロジーという新たな鎖で繋がれている。だが同時に、それは新たな連帯の可能性をも秘めているのではないか。しかし、より深刻なのは、商品が持つ価値が完全に実体を失い、投機の対象となっていることだ。プラスチックの人形が労働者の一週間分の賃金と等価となるような世界。これこそ、究極の物神性ではないか...』
続く