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カールマルクスが渋谷に転生した件 14 マルクス、再開発を嘆く(後半)

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マルクス、大企業と話す

夜のジャズ喫茶。通常の営業を早めに切り上げ、店主が次々と訪れる来客のためにコーヒーを淹れていく。

レコード店、古着屋、インディーズ系の本屋、八百屋、路地裏の個人経営居酒屋...。商店街の店主たちが、いつもより多めに並べられた椅子に着席していく。

レコードプレイヤーからは、ビル・エヴァンスのピアノが静かに流れている。時折、外からクレーン車の音が漏れ聞こえてくる。

「渋急の担当、まだですね」
誰かがぼやく。

会場の後方では、木下がノートPCのセッティングを済ませていた。

「配信の準備はOKです」

「意外でしたね」さくらが小声で。「渋急が配信を許可してくれるなんて」

「ああ」木下が苦笑する。「広報部が『むしろ丁寧な説明の場として活用させていただきます』って」

「本当に」店主の息子が父親に。「撮影していいの?渋急だって、まだ最終決定じゃないのに...」

「記録として残しておきたいんだ」店主が静かに。「この店で、この空間で、みんなと話し合ったことを」

その時、ドアが開く。

「大変申し訳ありません」
スーツ姿の男女が二人、深々と頭を下げる。渋急の担当者だ。

「では」女性の方が、PCを開きながら。「再開発計画の概要について、改めてご説明させていただきます」

淡々とした声で、数字が並んでいく。
投資額、床面積、予想来客数、テナント構成、補償内容...。商店街の面々にとっては、決して悪くない条件にも思えた。

マルクスの髭がピクリと動く。
木下が差し出したタブレットには、渋急のIR情報が映し出されている。

「一点、確認させていただきたい」マルクスが静かに切り出す。

渋急の担当者が、この異様な風貌の男を訝しげに見る。

「この計画における『文化的価値』の定義は?」

「はい」男性の担当者が資料をめくる。「新施設には『カルチャーゾーン』を設け、現在の個性的な店舗の...」

「違う」マルクスが遮る。「私が聞いているのは、このジャズ喫茶で40年かけて築かれた空間の価値を、どう評価したのかということだ」

一瞬の沈黙。

「確かに」女性の担当者が慎重に言葉を選ぶ。「歴史ある店舗の価値は認識しております。ですので、新施設でも優先的にご案内...」

「つまり」マルクスの声が冷静に響く。「あなた方の言う『文化』とは、既に商品化された形でしか存在しないと」

「いや」男性の担当者が焦ったように。「我々も地域文化の継承には最大限...」

「では」今度は古着屋の店主が。「うちに毎週来てくれる常連たちとの関係は、新しい場所でも『継承』できるんですか?」
「人と人との関係は」八百屋が続ける。「場所が変われば、それだけで...」

「私たちも」女性の担当者が真摯な表情で。「地域コミュニティの価値は十分理解しているつもりです。新施設では、共有スペースも設け...」

「なるほど」マルクスが不意に立ち上がる。「では、お訊ねしましょう。この計画書の中で、『価値』という言葉が何回出てきますか?」

担当者たちが資料に目を落とす。

「48回です」マルクスが続ける。「そのうち46回は『資産価値』『投資価値』『不動産価値』...要するに、交換価値としての価値」

レコードプレイヤーから、モンクの不協和音が響く。

「残り2回が『文化的価値』ですが」マルクスの声が冴えわたる。「それも『観光資源としての』という但し書き付きだ」

「いや、それは...」

「つまり」マルクスが静かに遮る。「あなた方の言う『価値』とは、すべからく資本の論理に回収可能なものだけなのです。この喫茶店で40年かけて築かれた時間は、観光客向けのストーリーに。八百屋の暮らしを支える機能は、物販コーナーの一角に」

「しかし」男性の担当者が反論する。「それは時代の要請であり、グローバルな都市間競争の中で...」

「グローバル?」マルクスの口調が厳しくなる。では、このジャズ喫茶に、ニューヨークから若いミュージシャンが訪ねてくる理由は?レコード店に、アジア各国からコレクターが通う理由は?」

「それは」マルクスの声が熱を帯びる。「この場所が、資本の論理に還元できない固有の『使用価値』を持っているからだ。効率や利益では測れない価値を」

「分かります」女性の担当者が意外な言葉を。「私も学生時代、この辺りでよく...。でも、企業としては...」

「そう」マルクスが静かに頷く。「あなた方個人を責めているのではない。これは構造の問題なのです」

「構造?」男性の担当者が返す。

「投資家たちは四半期ごとの収益を求める。その圧力の下では、企業も『効率化』という名の均質化を強いられる。そして、その過程で失われていく価値に気付かない...いや、気付いていても、それを数値化できないがために、無視せざるを得ない」

「では」店主の息子が。「どうすれば...」​​​​​​​​​​​​​​​​

「では、具体的に提案しよう」マルクスが三つの項目をホワイトボードに書き出す。

「第一に、価値の可視化だ」
マルクスがビデオカメラを指差す。
「この議論を配信し、記録として残す。この街で育まれた文化の社会的意義を、数字では表せない価値を、可視化するのだ」

「第二に、対案の提示」
「我々は単なる反対ではなく、代替案を示す。商店街の店主たちによる漸進的な更新計画。これなら固有の価値を守りながら、新しい要素も...」

木下が割り込む。「具体的な試算は、私も協力できます」

「そして第三に」マルクスの声が力強い。「新しい主体の構築。商店主だけでなく、この街を愛する、すべての人々による協議会を」

渋急の担当者たちが顔を見合わせる。

「しかし、計画はすでに動いており…」女性の担当者が青ざめる。「まずは、上役と相談させていただけないでしょうか」

後日、Das Kapital TVのコメント欄には、数千の声が流れていた。

「渋谷だけじゃない」
「うちの街でも同じ問題が」
「え、あの商店街、なくなっちゃうの?」

そして数日後、渋谷のあちこちで、小さな動きが始まっていた。

路上ライブの若者たちが署名を集め、カフェではクリエイターたちが代替案を議論し、SNSでは#SaveOurShibuyaのハッシュタグが広がっていく。

「見たまえ」マルクスが誇らしげに。「人々は、単なる消費者ではないのだ」

窓の外では、クレーン車が古いビルを少しずつ解体していく音が響いていた。
しかし今や、その音は終わりの始まりではなく、新しい何かの胎動のように聞こえ始めていた。


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