カールマルクスが渋谷に転生した件42 さくら、しごできになる(前)
さくら、激務をこなす
さくらの一日は、いつも早く始まる。
朝六時、まだ渋谷の街が目覚める前から、彼女は祖母の経営するゲストハウスで働き始めていた。朝食の準備、洗濯物の片付け、そして祖母の介護。
「お婆ちゃん、朝ごはんの時間よ」
「ブルジョワジーの搾取に、死を!」
離れから髭面の男の怒声が響く。
「もう、マルクスさん、また掃除ロボットと喧嘩してるんですか?」
Das Kapital TV編集部として使用している離れに駆け付けると、そこには掃除ロボットと睨み合うマルクスの姿があった。
「さくら!この鉄の円盤め、私の原稿に突進してきたのだ!」
床に散らばった原稿を拾いながら、マルクスは憤慨している。
「だから言ったでしょう。床に物を置かないでって」
さくらはため息をつく。
「ルンバはただ、プログラム通りに動いてるだけです」
「プログラム?ふん、それこそが問題だ!人工知能による労働の管理、アルゴリズムによる支配。まさに現代の…」
「ピロロロ♪」
掃除ロボットが、また髭に向かって進む。
「下がれ!私はかの有名な…うわっ!」
マルクスは慌てて原稿を抱えながら後ずさる。
「そうそう、西野先生とのオンラインミーティング、もうすぐですよ」
さくらはスマートフォンの通知を確認する。
「環境経済学の最新研究について、Das Kapital TVで取り上げる打ち合わせ…」
「むむ」マルクスは原稿を机の上に置く。「しかしその前に、この機械との決着を…」
「どうせ、充電切れまであと10分です」さくらが冷静に告げる。
「それより、Zoomの設定、覚えてますか?」
「ズーム?ああ、かの悪名高きビデオ会議システムか」
マルクスは不安げに髭をいじる。
「前回は私の姿が消えたり、声が出なかったり…」
「ミュートにしたままだっただけですよ」
さくらはパソコンを立ち上げながら、ふと立ち止まる。
朝食の準備、洗濯、介護、編集作業、ミーティング…
目の前のタスクリストが、まるで増殖するように広がっていく。
「さくら?」
マルクスが心配そうに声をかける。
「あ、大丈夫です」
慌てて笑顔を作る。
「ちょっと、考え事を…」
その時、掃除ロボットが最後の力を振り絞るように、マルクスの方へ突進する。
「むっ!」
急いで椅子に飛び乗るマルクス。
原稿が再び宙を舞う。
「私が『資本論』で指摘した機械による労働の支配は、まさにこのような…おっと!」
「バッテリー残量ゼロです。おやすみなさい♪」
掃除ロボットが静かに停止する。
散らばった原稿を拾いながら、さくらは小さくため息をつく。
いつもの朝の風景。
しかし、この日常の中に、現代の労働を取り巻く様々な問題が凝縮されているのだと、彼女は気づき始めていた。
さくら、2人も介護する
「よし、これでカメラはオンになったはずだ!」
マルクスが得意げに宣言する。しかし画面には天井だけが映っている。
「あの、マルクスさん…」
「むむ?西野君が見えないのだが」
画面の向こうで西野准教授が苦笑する。
「マルクスさん、パソコンを傾けすぎです」
「ええと、今日の議題は」さくらが話題を切り替える。「環境経済学における労働価値説の現代的展開について…」
「おお!」マルクスが身を乗り出す。「これぞまさに私が『資本論』で…うわっ!」
勢い余ってコーヒーをキーボードに零す。
「ああっ!」
「大変だ!『資本論』が水浸しに!」
「いえ、それはプリントアウトですから…」
混乱の中、さくらは黙々とキーボードを拭き始める。
家事、介護、編集作業、機器のトラブル対応…
日々の小さな労働が、静かに積み重なっていく。
「さくらさん」
西野の声が、優しく響く。
「君、最近疲れているように見えるけど…」
「え?あ、大丈夫です!」
慌てて明るく答える。
「ちょっと、忙しいだけで…」
「待て」
マルクスが真剣な表情になる。
「さくら、君は何か抱え込んでいるのではないか」
「…」
キーボードを拭く手が、少し震える。
「私ね」
さくらはゆっくりと口を開く。
「中学生の時から、お婆ちゃんの介護をしてきたんです」
画面の中の西野が、静かに頷く。
「学校に行って、帰ってきて、家事をして、介護をして。今は大学に通いながら、Das Kapital TVの編集も…」
「それは」マルクスの声が低く響く。「二重の、いや三重の労働負担ではないか」
「でも、誰かがやらないと」
さくらは微笑む。
「お婆ちゃんのためだし、Das Kapital TVは好きでやってるし…」
「まさにそれだ!」
マルクスが立ち上がる。
「資本主義は、愛情や使命感に基づく労働を、あたかも自然なものとして搾取する。社会が担うべき再生産労働を、個人の献身に転嫁している!」
「マルクスさん、またカメラが…」
「おっと」
「でも」西野が続ける。「その問題に気づいている人は少ない。見えない労働、価値化されない労働…」
「だから」さくらが真剣な表情で。「私たち、ここで声を上げられるんじゃないかって」
「ほう?」
「Das Kapital TVで、ヤングケアラーの問題を取り上げる。介護と仕事の両立に悩む人たちのネットワークを作る。理論だけじゃなく、実践も…」
さくら、働きすぎ
その時、廊下から物音が。
「あ、お婆ちゃんが起きた!」
さくらが立ち上がる。
「待て、さくら」
マルクスが呼び止める。
「私にも、かつて大切な同志がいた。理論家の私に、現場の視点を教えてくれた男だ」
マルクスは懐かしそうに髭をなでる。
「彼の名は…」
「エンゲルスですよね」
さくらが笑顔で振り返る。
「『イギリスにおける労働者階級の状態』、読みましたから」
「なに!?」
マルクスが椅子から転げ落ちる。
「君、あの難解な…いや、素晴らしい著作を!?」
「はい。特に、実地調査に基づく具体的な記述が印象的で…」
「さくらさん」西野が画面越しに苦笑。「お婆さんが」
「あ、そうでした!」
さくらは小走りで部屋を出ていく。
マルクスは黙ってその後ろ姿を見つめていた。
若きエンゲルスが、工場での観察をもとに理論を組み立てていった日々。
そして今、目の前で現代の労働の現実を生きている若者。
「西野君」
マルクスが静かに言う。
「私は、また一人、良き同志を見つけたようだ」
「ですね」西野も頷く。「でも、さくらさんの負担が気になります」
「ふむ…」
マルクスは考え込む。
そして突然、顔を上げる。
「私にいい考えが!」
「え?」
「これからは、掃除は私が…うわっ!」
充電を終えた掃除ロボットが、再び髭に向かって進み始めていた。