漫画名言の哲学番外編2 『暴れん坊将軍』-お茶の間の集団的儀式
驚くべきニュースを耳にした。なんと『暴れん坊将軍』が17年ぶりに復活するという。71歳の松平健は、果たしてあの凛々しい姿で「成敗!」を叫べるのだろうか。だが、そんな心配は無用だったかもしれない。なぜなら、この作品の真髄は、儀式化された「社会的ドラマ」にこそあるのだから。
権力の儀式としての成敗
将軍が悪を成敗する直前、必ずと言っていいほど放たれる言葉がある。
このセリフは、社会的秩序の回復を告げる儀式的な言葉だ。文化人類学者のヴィクター・ターナーは、社会における劇的な出来事が「破壊」「危機」「修復」「再統合」という4段階を経ると指摘した。まさに『暴れん坊将軍』の展開は、この社会的ドラマの完璧な実践なのである。
悪党による秩序の破壊、危機的状況の進行、将軍による修復の介入、そして最後の成敗による社会の再統合—。この一連の流れは、決して単なる娯楽以上の意味を持つ。それは社会が自らを癒し、秩序を回復していく過程の象徴的な上演なのだ。
境界を超えて-お茶の間の集団的儀式
特に興味深いのは、徳田新之助から将軍吉宗への変容の瞬間である。ターナーの言う「リミナリティ(境界状態)」において、日常的な秩序は一時的に宙づりにされ、新たな秩序が生まれる。「世の顔を見忘れたか」という言葉は、まさにこの劇的な変容の瞬間を告げる儀式的な合図なのだ。
さらに注目すべきは、この展開がお茶の間ドラマとして毎週反復されてきた点である。視聴者は「成敗!」の前に必ずこのセリフが来ることを知っている。黒幕が驚愕し、手下たちが刀を抜き、最後は御庭番による十字斬りで幕が下りる—。この予定調和に満ちた展開こそが、視聴者にある種の安心感をもたらしてきた。
ターナーが指摘したように、儀式とは共同体が自らの価値観を確認し合う場である。夕方の時間帯に家族で視聴する時代劇は、まさにそのような「集団的な儀式」として機能してきた。悪が必ず成敗され、正義が勝利する—。この確実な展開を、視聴者は知っていながらなお期待し、家族で共有する。それは現代社会における重要な儀式的機能を果たしているのだ。
お茶の間大衆文化の再臨
17年の時を経て、再び始まろうとしているこの儀式。それは単なる時代劇の復活以上の意味を持つのかもしれない。社会が求める秩序回復の物語として、今なお私たちの心に深く響くのだから。
ちなみに、この記事を書くために『暴れん坊将軍』のWikipedia記事を読んでみたのだが、その充実度に驚愕した。成敗の流れだけでも数千字を超える記述があり、まるで博士論文のような緻密さである。この熱意はいったいどこから来るのだろう。おそらくこれこそが、日本の大衆文化の真髄なのかもしれない。