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カールマルクスが渋谷に転生した件 1 マルクス、死す

マルクス、眠りにつく


1883年3月14日、ロンドン。
窓から差し込む薄暗い光の中で、カール・マルクスは肘掛け椅子に深く沈みこんでいた。長年連れ添った相棒の肘掛け椅子は、今や空虚な影を部屋に落としている。

「お父様、お水を...」
末娘のエリナーが心配そうに差し出したコップを、マルクスは震える手で受け取った。

「ありがとう、トゥーシー」
愛称で呼びかけながら、かすかに微笑む。しかし、その表情にはどこか達成できなかった何かへの悔いが滲んでいた。

「フリードリヒ...」
マルクスは親友エンゲルスの名を呼んだ。長年の盟友は、ベッドの傍らで『資本論』の原稿を手にしていた。
「カール、第三巻の校正はこの手で必ず...」
「いや」マルクスは目を閉じながら言った。「もう十分だ。我々は可能な限りのことをした。後は...後は労働者たちが自らの手で...」

言葉が途切れる。窓の外では、工場の煙突から立ち上る煙が、灰色の空に溶けていくのが見えた。産業革命後のロンドンの空は、いつも灰色だった。

「私の理論は...まだ不完全だ。搾取の本質は捉えたが、その先の解放への具体的な道筋は...」
突然、激しい咳が彼を襲う。エンゲルスが慌てて駆け寄る。

「カール!」
「大丈夫だ...ただ、もう少し時間があれば...」
マルクスは窓の外を見つめた。工場で働く労働者たちの姿が、かすかに見える。

「彼らは...いつか必ず...」
その時、不思議な光が部屋を満たし始めた。マルクスの意識は、ゆっくりと遠ざかっていく。最後に見たのは、愛する家族とエンゲルスの心配そうな表情。そして...
 

マルクス、渋谷で蘇る

意識が戻った時、最初に感じたのは轟音だった。
工場の機械音とは異なる、重層的で執拗な騒音。そして鼻をつく、燃料のような異臭。完全な混沌の中で、彼の意識は徐々に現実へと引き戻されていく。

「ここは...地獄か?」

ゆっくりと目を開けると、マルクスは見たことのない光景に囲まれていることに気がついた。灰色のロンドンとは異なり、あまりにも多くの色と光が押し寄せてくる。巨大な箱型の建物が空に向かって伸び、その壁面には得体の知れない文字や図像が踊っている。
まず耳に飛び込んでくるのは、意味不明な音声の洪水。

「まぢ卍」
「無理無理むりぃ!」

異質な音の連なりが、不思議なことに数秒後には意味を持ち始める。まるで脳内で自動的に翻訳されているかのように。

「これは...いったい何が起きている?」
マルクスは混乱しながら額に手をやった。
自分の体を確認する。着ているのは確かに、いつもの黒いフロックコート。ポケットには、死の間際まで手放さなかった懐中時計が...しかし、時計は止まっていた。

周囲を歩く人々の服装は、まるで見たことのないものばかり。女性たちは、ヴィクトリア朝の価値観では到底受け入れられないような姿で闊歩している。そして皆、手の中の発光する板に目を落としたまま歩いている。

「スマホ見ながら歩くの危ないよね~」
「新しいアプリやばくない?」
「今日の締め切りやばいかも...」

言葉が次々と意味を持ち始める。最初は異質な音として耳に入り、そして徐々に理解可能なものへと変化していく。看板の文字も同じだった。始めは意味不明な象形文字のように見えた文字が、じわじわと読めるようになっていく。

「私は確かに数カ国語を習得していたが...」
マルクスは呟く。

「これは英語でもドイツ語でもフランス語でもない。しかし、なぜ理解できる?」
突如、頭上から轟音が響く。見上げると、巨大な金属の物体が空を飛んでいた。
「リリエンタールの夢想が実現したというのか...」

マルクス、はじめてのスタバ

混乱する意識の中で、ふと目に入ったのは緑色の円形の看板。人魚のような姿の怪物が微笑んでいる。
「スターバッカス...コーヒー」
「コーヒーハウスか...」

マルクスは安堵のため息をつく。ロンドンでは、コーヒーハウスは知識人たちの社交場だった。しかし、ガラス張りの店内に足を踏み入れた途端、その安堵は消え失せた。
「いらっしゃいませ!」
元気の良い声が耳に飛び込んでくる。若い店員の制服の胸には、先ほどの緑の怪物のマークが微笑んでいた。

店内は異様だった。ロンドンのコーヒーハウスにあった重厚な木の椅子や、知識人たちが新聞を広げて議論を交わす姿はない。代わりに、妙に清潔な空間に、同じような形の椅子が整然と並んでいる。そして誰もが、あの発光する板を手にしている。
 
カウンターの上には得体の知れない機械が並び、轟音を立てては見たことのない形のカップに褐色の液体を注いでいる。その向こうでは、若い労働者たちが息つく暇もなく動き回っている。

「お客様、ご注文は...?」
マルクスは無意識に後ずさった。メニューボードの数字を見て、彼は思わず目を疑う。
「これは...」

数字の意味が分かり始める。
「コーヒー一杯に600円?これは...」
計算しようとして、また混乱が襲う。ポンドとの換算が必要なはずなのに、なぜか円での価値がすぐに理解できてしまう。

「あの、」マルクスは喉を絞り出すように言う。「これは一体どこなのでしょうか」
「え?ここスタバですよ。渋谷スクランブルスクエア店です」
「渋谷…すまない、渋谷とは、どの国の都市なのだろうか」
「渋谷は都市じゃないですよ。日本の東京の一部です。お客様、酔われていますか?」
「日本…!?、あの極東の島国か?ここ最近までサムライの支配する国ではなかったのか?これほどまでに文明が発展してるはずが…」

その言葉を反芻しながら、彼は壁に目をやった。鏡に映る自分の姿に、マルクスは息を飲んだ。
確かにそれは自分。長い髭、くたびれたフロックコート...しかし、なぜ死んだはずの自分が...
「お客様?」

店員の声に我に返り、マルクスは慌ててポケットを探る。あるのは数枚のポンド紙幣のみ。

「申し訳ない...」
店員の困惑した表情を見て、彼は慌てて店を出た。
外では雨が降り始めていた。巨大な交差点を行き交う人々の傘が、色とりどりの波を作る。ネオンが雨に滲み、幻想的な光景を作り出している。
 
その光の中で、マルクスはふと、路上に座る老人の姿を目にした。段ボールの上で、雨を避けるように身を縮めている。その傍らには空き缶が積み重ねられていた。

「やはり...ここは私の時代とは異なるようだ。だが…」
マルクスは拳を握りしめた。

「資本主義の矛盾は、形を変えてなお、確かにここに存在している」

雨は次第に強くなり、渋谷の街は妖しい光に包まれていった。マルクスは、ずぶ濡れになった髭から雨を拭いながら、この得体の知れない世界で自分に何ができるのかを考え始めていた。

続く


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