The GORK 34: 「氷の世界」
34: 「氷の世界」
煙猿の説明によると、俺が受けた第一段階の注射では、身体の剥製化はまだ始まらないのだそうだ。
ここでは極端な身体の不活性化だけが見られ、体内でプラスティネーションの準備だけが進められる。
それも第二液を使わず、数週間その状態を放置しておくと、身体は元に戻ってしまうらしい。
しかし、過去の複雑かつ大仰なプラスティネーション技術と比べると、この二薬の体内への注入だけですむネオ・プラスティネーションは革命的なのだそうだが、浅学の俺にはそこのところがよく判らない。
ただ、このネオプラスティネーションで生成される人体剥製は、触媒にあたる第二薬注入の段階で、人体は苦痛の為に総て苦悶のポーズをとる事から、煙猿のような非常に強力な深層催眠を施術出来る人間が、被献体のポージングの工夫をしないと「良い作品」にはならないのだそうだ。
触媒となる第2段階の注射で、それらは劇的に起こる。
実際には、第一段階投薬と第二段階投薬の間には、もう少し複雑な処理があるのだが、要はこの二つのバランス、つまり大ざっぱに言えば、投薬の量とタイミングによって、投薬対象者の剥製化における苦しみの度合いや、出来上がりが変わってくるのだと言う。
俺の場合は、第二段階の注射で、文字通り「一瞬」にして、身体の硬化が始まるそうだ。
それは煙猿の深層催眠による外部からの人体への遠隔操作も受け付けぬ程の早さらしい。
俺に施された処置は、第一段階の現段階で、大量の投薬と時間が必要だったとか。
ただし、この方法の方が、トータルすると、他のアプローチより遙かに剥製化の為の時間は短くて済むのだという。
・・・そういった諸々の、いずれ己に降りかかってくる死に至る認識を、俺はさほどの感情面の揺れもなく受け入れ始めていた。
この頃には、「目川」という存在は、俺の脳髄のほんの一部分にしか存在せず、残りの思考領域は、全て煙猿の命令・指示の為に宛がわれていたからだ。
そして、今、煙猿によるたった一つの「待て」と言う命令で、自ら動くことすら止めた俺の視線の片隅で、あるものが意味なく動いていた。
それは、煙猿が配線をし直した上で、この場所に移動してきたという警備モニターに映し出された二つの影だった。
裏門の搬出入扉前。
乏しい光量の中で、こちらを見上げているのは少女。
搬出入扉横の通用門に取り付いているのは、がっしりした体格の年かさの男。
俺はその少女の姿に、自分の胸の奥がチリチリと焦げ付くのを感じたが、その感情の正体が何であるかを考える事が出来なかった。
今の俺が出来ることは、たった一つ、煙猿を「待つ」という事だけだったからだ。
煙猿は次の仕事の為に、目川をアジトに置いてきていた。
一応、目川を監禁している地下展示階の出入り口には施錠はしてあるが、それは外からの侵入を防ぐためのもので、内部からは簡単に脱出は可能だし、目川の身体には何の拘束もしていない。
いわばザルのようなものだ。
そういう状況の背景には、煙猿自らが目川に施した、精神制御薬とセットにした深層催眠術への自信もあるが、何よりも煙猿が目川の拉致や剥製化の仕事にあまり乗り気でなかった事が大きい。
それより、同じ十蔵からの依頼であっても、今やろうとしている仕事の方に、煙猿はより大きな魅力を感じていた。
裏十龍の壊滅を願う政治勢力の旗頭であるムラヤマの暗殺には、多額の報酬が用意されていた。
目川拉致の仕事は報酬額が少なく、この仕事には、十蔵からの依頼という側面以上に、裏十龍の住人としての責務が7割以上含まれていた。
暴力団組織員とやり合う程、派手な仕事であるのに、その労力は報酬に繋がらない割の悪い仕事だった。
それに煙猿には裏十龍に対する愛着は全くなかった。
煙猿にはシェルターなど必要ない。ただ金蔓になるから関わっていただけの話だ。
が、今回の仕事は、それとは関係なく十分な金額が手に入る。
依頼者が同じ十蔵であっても、目川のケースの場合は裏十龍を代表しての依頼であり、今回の依頼は十蔵個人のものだったからだ。
神代組傘下の蛇喰ファミリーの防御網を粉砕して目川を奪取する事は、目川を裏テンロンに潜り込ませて来た神代組に対する、裏十龍の意志表示そのものになる。
そして目川の剥製化は、十蔵の復讐心を満足させるおまけのようなものだ。
それに対して、今回、十蔵が依頼してきたムラヤマ会長の暗殺は、たとえその目的が、崩壊し始めている裏十龍の起死回生の為の秘策であるとしても、それはあくまで十蔵個人が企てた事であり、何よりもその事は当の十蔵自身が、煙猿を動かす際に裏十龍の威光を頼らず一般的な相場額を提示した事で証明されている。
煙猿自身の状況分析では、裏テンロンが以前のように独立した裏の小世界として生き残る道は既に失われている筈で、今回のムラヤマ会長暗殺という十蔵の動きは、焼け石に水の様な行いにしか思えず、実際、それは裏十龍の総意ではないようだった。
いわば、今回の依頼は、裏十龍崩壊の引き金を引いてしまった十蔵の意地とメンツをかけた最後の悪あがきに過ぎないのだが、煙猿には、報酬さえあればどうでも良いことだったのだ。
煙猿の状況からすると、半島から仕入れている「薬」のストックが不足し始めており、半島の仕事を受けてその見返りとして「薬」を補充するか、自分の金で買い付けるか、そのどちらかを迫られていた時期の仕事として、今回のムラヤマ暗殺はありがたい仕事だった。
かといって煙猿が常に「薬」で半島に縛り付けられている訳ではなかった。
勿論、最初の頃は半島の思惑もあって、そういう従属関係になりかけていたが、ある時期を境に、煙猿は完全に半島からのフリーハンドを確保することが可能になっていたのだ。
日本国内で半島の工作を手伝うことで、逆に半島の弱みを握ることが多々発生し、煙猿はそれを上手く利用する事ができたのだ。
更に、それ以上に重要だったのが、煙猿の「薬」に対する特異体質の発現だった。
半島が煙猿に投薬した薬の本質は、いわば「麻薬」にしか過ぎなく、それ故、半島は麻薬の習慣性や禁断症状を利用して、煙猿を完全に支配下における筈だったのだが、どうした事か、煙猿には薬を断っても、本来万人に起こるべき禁断症状が起こらなかったのだ。
どうやら煙猿の脳は、薬の供給を絶つと、自らが薬と同等の性質を持つ代替えの脳内麻薬物資を生成するように変質したらしい。
煙猿の脳が作り出す物質は、半島の薬のように、煙猿の運動能力をブーストするほどの力はなかったが、少なくとも、煙猿は薬をたたれても禁断症状にのたうち回り苦しむことはなかったのだ。
それでも煙猿が「薬」を求めるのは、「薬」が与えてくる幻の万能感ではなく、実際に運動能力を加速し、彼を超人化するその効果を手に入れるためだった。
半島の科学者達も、薬を使った自国の特殊兵たちの「有効期限」の短さに反する煙猿の特異性の秘密を知り、その特異体質を研究したがったが、効率優先の軍部は、半島の弱みを逆手に強請を掛けてくるわけでもなく、金と薬の為なら平然と自国を裏切り続ける煙猿の「使いで」の方を取ったようだった。
莫大な研究費を投じて煙猿を研究材料にするより、「有効期限」が短くても使い捨ての効く兵力が国内にあるのだから、現状では、それで良いという判断である。
さらに、煙猿は自分が国内で稼いだ自由になる金で、半島軍部の有力者の何人かを手なずける事にも成功していた。
つまり煙猿は、この時期に、半島内で自由に薬を手に入れる事が出来る立場を確保していたのである。
更に煙猿は、半島の仕事を減らし、国内の仕事の利益によってのみ、薬を買い付ける事で、半島における彼の立場がより優位になる好循環を作り上げていたのであった。
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