
⑮年商10億円規模までの会社がコロナ後も生き残るために大事なこと~都銀出身・元焼肉店経営・元不動産投資家・地方在住、経営コンサル2年目の気付き~コラム2焼肉店オーナー編
敗軍の将多くを語る
約5年間を一気に振り返り、検証してみます。
やはり焼肉店シリーズは⑯まで続けます。
初出店前はリソースが少ないながらも準備時間があるため、原理原則に基づいた戦略と戦術を駆使することができました。
経営学的に「後発の弱者」という認識は少しあって、岡山市内の競合が少ないエリアを選びました。近隣の8町に焼肉店は調べるとゼロでした。
ランチェスター戦略において目指す、26%の占有率どころか100%でした。
今思えばSTP(セグメンテーション・ターゲッティング・ポジショニング)が最も明確でした。
S:上質な和牛
T:ホワイトカラーをメインターゲットに
P:韓国風ではない、和風な味付けやメニュー構成で差別化する
という具合でした。
出店場所はいわゆるホワイトカラーが多いエリアでした。岡山地裁が近いため、法律事務所が多数あり、東証一部上場企業であるトマト銀行の本店とベネッセコーポレーションの本社が徒歩圏内にありました。
差別化として縁起の良い日本的な「こいのぼり」という店名に。
メディアミックスが成功
2015年当時は、まだfacebookが成長期にあり、Instagramが流行し始めた時期でした。
ITとマーケティングを兼ねたコンサルタントと契約し、広告戦略と戦術を構築していきました。
SNSと紙媒体。地元テレビ局とのメディアミックスが成功し、「レアステーキ丼」というヒット商品も生まれ、現場スタッフが過酷な労働環境に耐えてくれた結果、瞬く間に繁盛店の一角に躍り出ました。
準全国ネットの「ノブナガ」にも偶然出演のチャンスをゲット。最寄り駅でロケしている方々と偶然出くわし、勇気を出して声をかけたところあれよあれよという間に家族で出演に。ちなみに「日本全国家メシステーション」というコーナーでした。一号店がオープン直前で、チラシで宣伝することができ、SNSでも拡散でき、めちゃくちゃラッキーでした。
で、その時の写真。良き思い出です・・・。
私はダウンタウンのごっつええ感じ、Wコウジの放課後電磁波クラブに酔いしれたドンピシャ世代です。
ロケで出演している私にワイプの中で今田耕司さんに「自営業なんや。凄っ!」
そして、東野幸治さんにも私のロケ姿にリアクションしていただき、天にも昇る気持ちだったことが思い出されます。
おまけに地元のTV局に勤務していた高校野球部の後輩から、勤労感謝の日の特別番組にお父さんの職場体験的なコーナーあるんで出てくれませんか?との嬉しい提案が。二つ返事でOKし、家族でお店でのロケのVTRと番組生出演をさせていただきました。一番上の写真がその時のものです。もう6年前になります。
二号店ができて間もない頃で、間違いなく認知度が向上しました。
奇襲作戦成功 坪あたり30万円の売上を達成
一号店は成功しました。当初こそ、大幅な問題点が多々あったものの恩人である先輩経営者から助言をいただき、一つずつ改善行動を重ねていきました。
当時は調子にのっていたので、FCなんてまどろっこしいことやってられるか!みたいな感じで突っ張っていて、メニュー開発から全て自社で行い、自社ブランドに拘って出店しました。
地方都市あるあるですが、ちょっと成功するとちやほやされ、有頂天になる愚かな社長。
はい。まさに私です。
ぷち成功すると、色んな誘いがやってきます。
最初から拡大するつもりだったので、正社員を3名雇用していました。人材難の時代が忍び寄って来ていることは、経営者との交流の中で察知していたので無理して雇っていました。
1号店がオープンし、2ヶ月ほど過ぎた頃には2店舗目候補地を探し始めていました。1店舗の売上では現金は多くは残らないからです。
2号店は紆余曲折ありましたが、歓楽街の端に位置する物件に決定しました。そして2号店の改装を担当する工務店さんが3号店候補となる川崎医大のあるJR中庄駅前の物件情報を持ち込んでくださり、現金は枯渇していたのにもかかわらず私は飛びつきました。その後、資金は融資と残った収益物件の売却益でまかないました。
意図的に計画し、辛抱して資金を貯めるという行為を人生で経験してこなかった弱点がこのあたりからあらわになってきます。
今思えば自らの戦いは先の大戦における日本軍の失敗と重なります。
具体的な攻略目標とゴール設定が曖昧でした。
更に幕引き。日本軍で言うところの、いかに有利な講和にどう到達するか、という出口戦略。さらにその反対の経営がバックギアに入った際の撤退、縮小戦略も盲点でした。
脆弱な工業力とのびきった兵站。資金やその他のリソースはギリギリの戦いだった点も共通点だと感じます。
あたり前ですが、ここで冷静に、原理原則は岡山市という地方都市でも通用するものなのだということに気づき、用心深くPDCAを回していき、内部留保を増やし、収益力を辛抱強く高めていけば、ちょっと違う展開になっていたと思います。
このあたりから私の弱点が原因で苦しい経営状態に突入していきます。
⑯へ続く