ヨルシカ「晴る」はドイツ語で „blauen Himmel“ だからヒンメルの歌?——『葬送のフリーレン』に即して解釈してみた

ヨルシカ「晴る」は、ドイツ語で意訳すれば „blauen Himmel“ (本来は「青空」の謂い)で、「ヒンメル(Himmel)」の語が含まれるので、ヒンメルの歌、ということに(巷では)なっているらしい。

けれど、それを言うなら「春」はドイツ語で „Frühling“ (フリューリンク)で音が「フリーレン」に近く(ドイツ語の発音を聞いてみると、実際似ている https://ja.forvo.com/word/fr%C3%BChling/)、フリーレンの歌でもあると思う。

もちろん、本当には「フリーレン」はドイツ語で „frieren“ 、つまり「凍る」ことを意味するけれど、むしろ、一見すると氷のように冷徹だったエルフのフリーレンが、人間の温かみに触れ、もっと「人間を知ろう」と思って旅立ったのが、『葬送のフリーレン』という物語ではなかったか。

つまり「晴る」は、「凍る」という意味の名を持つフリーレンにも、「春」=「晴る」が訪れてほしいと、 „frieren(凍る)“ を „Frühling(春)“ と読み替えた、ヨルシカなりの『葬送のフリーレン』への返歌なのではないか。

もしかしたら、以上のことはダジャレみたいなものだと思われるかもしれない。けれどいずれにせよ、歌詞を素直に読めば、「晴る」はフリーレンとヒンメルの歌というふうに読めるように思うから、以下、『葬送のフリーレン』の設定を念頭に、すこし解釈を施してみたい。

1番Aメロ後半×2番Aメロ後半

結論から言えば、1番はヒンメルと旅をしているときのフリーレン目線の歌詞、2番はヒンメルが死んだあとのフリーレン目線の歌詞、と解釈することができる。

分かりやすいので、はじめに1番Aメロ後半と2番Aメロ後半 ——この歌にBメロはないから「Aメロ」と記すのは便宜上のことなのだけれど—— の対比を読み解いてみよう。

1番Aメロ後半は、「目蓋を開いていた/貴方の目はビイドロ」で、これは冒険に対してキラキラと眼を輝かせるヒンメルの様子を示していると読める。対して2番Aメロ後半は、「目蓋を開いている/貴方の目にビイドロ」で、これは死んで「天国(Himmel)」へ行き、彫像と化したヒンメルの目がビイドロのような物質でできているさまを表現していると読める。「目蓋を開いている」というのは、彫像だから、眼が開きっぱなしであるということを意味しているのだろう。

1番Aメロ前半×2番Aメロ前半

これと同じように、1番Aメロ前半と2番Aメロ前半の対比を、ヒンメルと旅しているときとヒンメルが死んだあとの対比だと考えて解釈すれば、以下のようになろう。

つまり、1番Aメロ前半の「貴方は風のように/目を閉じては夕暮れ/何を思っているんだろうか」は、「風」のように早く冒険に明け暮れるヒンメルに付いて行っていると、瞬く間に「夕暮れ」になってしまうけれど、エルフのフリーレンにとっては、何がそんなに楽しくて冒険しているのか、つかみ損ねている様子を表現していると読める。

つづいて、2番Aメロ前半の「貴方は晴れ模様に/目を閉じては青色/何が悲しいのだろうか」は、死んで「空(Himmel)」となってしまったヒンメルのことを想うと、なぜだか涙(青色)が滲んでしまうけれど、いったい何が悲しいのか自分でも分からなくて戸惑っているフリーレンのさまを描いていると読める。

こうして解釈すれば、「晴る」が、フリーレンの歩む人生、ないしは『葬送のフリーレン』という物語そのものを表現しているのだということが分かっってくる。

おわりに

と、こんな感じで、「晴る」はフリーレン目線でヒンメルのことを想った歌と解釈できる。

もっと続けたいところだけれど、歌詞をすべて引用するのは憚られるし、何より、解釈には大きな幅があると思うから、ぜひともこれをお読みの皆さんには、『フリーレン』に即した、自分なりの解釈を考えてほしいと思う。

蛇足であることは承知のうえで、しかし最後に、歌詞にある「僕ら」について付言しておきたい。

「僕ら」とは誰だろうか? 上の解釈に従えば、それはまずもって、フリーレンとヒンメルのことだと読める。けれど「晴る風」=「春風」が、「僕ら」をどこまでも「遠く」へ連れて行ってくれるものだというのならば、「雲」も「海」も「越えて」旅をしていたハイターもアイゼンも、あるいは現在進行形で旅をしているフェルンもシュタルクも、皆「僕ら」に含まれるだろう。

それが意味するのは、「冒険」のなかでは皆、「僕ら」というひとつの存在であるということだ。フリーレンがフェルンやシュタルクと旅をしていると、思い出すのはいつもヒンメルたちとの旅のことであったように、旅は死者すらも、記憶のなかに甦らせる。

「僕ら」とはそういうことを謂っているのではないだろうか。雲が「裂け」て、「空(Himmel)」と一直線につながるその瞬間、生者が死者と出逢う束の間の瞬間こそ、「春」=「晴る」なのだ。

だから「僕ら」とは、いまも「空」のことを想うわたしたち、そしていつか「空」になりゆくわたしたちの名前だ。いつかこの歌が凪いだとき、跡に残るのはきっと、「春風」=「晴る風」だけなのだろう。


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