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「応答をし続けていくために」


・『家父長制を食べる』について

 飯山由貴による『家父長制を食べる』は2022年に制作され、森美術館で行われた『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング』という企画展で発表された映像作品である。

パンデミック以降の新しい時代をいかに生きるのか、心身ともに健康である「ウェルビーイング」とは何か、を現代アートに込められた多様な視点を通して考えます。自然と人間、個人と社会、家族、繰り返される日常、精神世界、生と死など、生や実存に結びつく主題の作品が「よく生きる」ことへの考察を促します。

森美術館HP『地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング』概要より(https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/earth/

 以上のようなテーマのもと、この企画展では16名のアーティストがさまざまな表現方法で制作した作品を展示した。そして本作もそのうちの一つであった。
 『家父長制を食べる』の主演は監督の飯山自身が務めている。冒頭ではカナダの作家であるマーガレット・アトウッドの『誓願』から主人公たちが男性に模したパンを焼き、食べる場面の一文が引用されている。同じように本作の主人公も小麦粉を捏ね、体のパーツごとに造形していく。その過程で主人公が言葉を発することはなく、水分を含んだ小麦粉が押しつぶされる生々しい音が響き続ける。男性の形に成形されたパン生地の横で主人公は横になり涙を流す。焼きあがったパンの口を噛みちぎり、時には嗚咽し、涙を流しながらそれを食べていく。

・創造主への怒りと憎しみ

 冒頭で引用されるマーガレット・アトウッドの『誓願』は1985年に発表された『侍女の物語』の続編にあたるものである。『侍女の物語』は、キリスト教原理主義が社会を統治し、女性が物のように扱われる世界を描いたディストピア小説として有名である。そんな『誓願』のパンを焼く場面からはキリスト教原理主義が内包する家父長制への批判を読み取ることができる。その場面に着想を得たという本作も、現代日本における家父長制の批判と取れるが、それだけに留まるようなものではない。

 神ヤハウェは大地の塵をもって人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き入れた。そこで人は生きるものとなった。

月本昭男『旧約聖書Ⅰ 創世記』岩波書店、1997年3月、7頁

 旧約聖書の創世記において神は七日間で世界を創造し、ヘブライ語で「アダマー」と呼ばれる大地から最初の人間アダムを造った。そして形造られた人(アダム)のあばら骨からエバを造りだし、「女」とした。その後、女であるエバはヘビに唆され、食べてはならないと言われた知恵の実を口にし、それをアダムに食べさせたことで「原罪」を犯したとされている。  旧約聖書学者の月本昭男は大地の「塵」について、水分を含むと粘土になる細粒土のことだと述べている[1]。聖書の記述と本作を照らし合わせたとき、主人公が男性を模したパンを造り、それを食い尽くしていく根源的な意味が見えてくる。  また、パン自体が聖書の中では一つの特徴的なモチーフとなっている。イエス・キリストが5000人の群衆に5つのパンと2匹の魚を分け合うという物語では、群衆の数に女性と子どもは入っていない。イエスが処刑される前に12人の弟子たちと食卓を囲む「最後の晩餐」と呼ばれる場面では、イエスの肉体を弟子たちに分け与えるという意味でパンを分け合って食べる。十二使徒と呼ばれる弟子たちに女性はいない。そして未だにキリスト教信者の多くは祈りの言葉を「天の父なる神」という文言から始める。  神はこの世界を創造するとき「良しとされた」という記述が聖書にはあるが、家父長制による支配は聖書の時代よりも昔から存在し、女性は常に社会の陰に隠されてきたことがわかる。そのような視点で見ると、本作が描き出すのはこの世界の創造主への怒りと憎しみのように見えてくる。

・内面化された家父長制

 パンから離れて本作について見てみると、主人公が住んでいると思われる部屋には皇室カレンダーがかけられ、雛人形が飾られている。どちらも日本における家父長制を表す代表的な存在であり、生活の至るところに浸透していることが表されている。そして家父長制は物質だけではなく、身体にまで及んでいることがわかる。その中で個人的に特に印象に残っているのは口元である。
 本作では冒頭から男性と思われる人々の口元がクローズアップで映される。談笑しニヤつく彼らの口の周りには無精髭が生えており、作品のタイトルからテーマを理解していると思っていた私は中年男性の口元のアップというだけで不快感を抱いた。ただ中盤に差し掛かると、今度はパンを咀嚼する主人公の口元が映し出される。その周りには毛が生えており、咀嚼音が響き渡る。冒頭の男性たちの口元よりも長い時間、私たちは口の中でかみ砕かれ、歯の隙間から飛び出してくるパンだったものを見ることになる。私はこの描写を見たとき、不快感と同時に自己嫌悪が押し寄せるような複雑な気持ちになってしまった。これまで家父長制の中で特権を持つ男性を批判していた私だったが、私自身もまた女性に対して毛を処理すること、身だしなみを整え化粧をすること、行儀のいい振る舞いをすること、といったような家父長制に由来する社会的規範を内面化している一人(言葉では「そんなことをする必要はない」と言ってきていたのに)であることを突き付けられたような感覚を抱いた。それは家父長制による特権を保持しながら、家父長制を批判する欺瞞に満ちた私への痛烈な批判のように感じられたのだった。

・「応答し続ける」こと

 そんな居心地の悪さを抱く私には何ができるのだろうか。飯山由貴の作品は、そこで描写される物事と鑑賞する者が無関係であることを許さない。
 冒頭に引用される『誓願』の一文の締めくくりは「焼きあがったら食べることになり、男に対して密かな力をもった気になれた」となっている。だが本作はパンを食べて終わりではなく、食べ終えた主人公が冒頭で切り落とした自分の髪の毛を拾い上げ咀嚼し飲み込んだところで幕を閉じる。それは、自分の毛の先までもが家父長制の支配にあることを示しているようにも見える[2]。明日からも続く家父長制による支配から逃れることのできない主人公が唯一抵抗としてできたことがパンを焼き、それを食らうということだったのだろう。その姿はパンを食べたことによって力を得、家父長制から解放されたようには私には見えなかった。怒りや憎しみの間に虚しさや無力感が漂っているような主人公の姿は、鑑賞者である私にどう「応答」するのかと問いかけているようにも感じられた。
 「応答する」ということは、他者の痛みから自分が感じたことを言語化し、手を挙げて闘う意志を見せることのように感じてしまうが、きっとそれだけが応答するということではない。この社会に生きる人間として自分が持っている特権性とそれに伴う責任に気付き、内面化されたものを引き剝がしながら、相手の痛みに静かに向き合おうとすることも応答の在り方なのだと私は思っている。そしてその営みは希望ばかりではなく、お互いの痛みを理解できないことに何度も直面し、その度に私たちは失敗と後悔を繰り返していくのかもしれない。だが、たとえそうだったとしても、それでも私たちはどこかでお互いの痛みが重なることを信じながら、自分から歩み出していくしかないのだと思う。そのような意味において飯山の作品たちは、私たちが「応答し続ける」ことではじめて完成するのだと私は思っている。

※本稿は2024年8月17日(土)にネイキッドロフト横浜で行われたスナック社会科横浜映画祭#2 特集:飯山由貴に寄稿したものを修正・加筆したものになります。

私が以前書いた飯山由貴『In-Mates』のレビューはこちら。


[1] 月本昭男『旧約聖書Ⅰ 創世記』岩波書店、1997年、7頁
[2]この部分については「男性に模したパンを成型し食す中で、自分自身がセクシストのようになってしまっているような感じがしたため、自分の髪を食べることにした」という旨の応答を飯山由貴からいただいた。


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