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外国人局から移民局へ

今日は仕事で久しぶりに移民局に足を運んだ。ベルリンの外国人局(Ausländerbehörde)も2020年から移民局(Landesamt für Einwanderung / LAF)と名称が変わり、将来的には熟練労働者の採用に重点が置かれるようになるらしい。

無期限の滞在許可を取得したのが確か2007年。ベルリンの映像制作会社に入社したのが2002年なので、ちょうど5年目に当たる。当時は会社員だったため、外国人局での手続きに必要な書類は会社のドイツ人同僚が準備してくれていた。なぜこの日本人が所属先の会社の労働力として必要なのか、という一筆が必要だったように記憶している。まだ自国について「移民社会」だという認識もされていなかったため、移民に対するドイツ語の統合コースなどもほとんど整備されていなかった。

3ヶ月有効の仮語学ビザで入国したあとは自分で日本から手配した語学学校へ通い、1年半以内に大学に入学できるレベルの語学力(C1)まで上げて大学入学のためのドイツ語テストに合格する必要があった。この試験も受けられるのは2度まで。2度目で不合格であれば帰国という厳しい条件だった。それも知らずに学校もサボり気味だったのだがたまたま知り合った日本人に語学試験について聞いてからは、授業にも真面目に参加するようになり、なんとか2度目で合格。そこでやっと語学ビザから学生ビザに切り替えることができた、という過去がある。

最低限の情報だけでふらっとベルリンに来て、知り合った人たちから色々と情報を仕入れて辻褄を合わせてきた。ネットの普及がようやく始まりつつあった頃だ。日本への連絡も国際電話かFAX、あるいは手紙だった。

90年代後半のベルリンにはまだ日本人もそれほど住んではおらず、SNSも存在しなかったおかげで誰がどこで何をしているのか、といった情報はほとんど入ってこなかった。日本人のコミュニティーを探すのには苦労したが余計な情報が入ってこないというのは、それだけでマイペースに暮らせるので気楽だったように思う。

どこでどう間違えたのか日本人コミュニティーではなく、なぜかロシア人コミュニティーが自分の周囲に展開していたのもこの頃だった。ドイツ語を学校で習っているのに、フリータイムがロシア語だったのだから困ったものである。ドイツ語も大してわからないというのに、さらにわからないロシア語で会話をされると非常に疲れた。わからないことにイライラするのは昔から変わっていない。それが嫌で、やっとドイツ語の語学試験に合格したというのに、今度は大学でロシア語を始めることにした。これもひとえに偶然の賜物でしかない。

ドイツ語がわからない→ビザ取得のためにC1まで勉強→大学入学→わからないロシア語を勉強するためにロシア語学科へ→

たまたまモスクワの友人に会いにモスクワに滞在しているときに、なぜか現地で知り合った日本人に面接に連れて行かれた。ただ、そこでインターンをすることになったときも大学の専攻がロシア語学科だったため、ビザの手続きをする際に辻褄が合ってしまった。そしてそこで半年弱のインターンを終え、またベルリンに戻ったのだがこれまた戻ってくるタイミングとしてはベストだったことが後になって判明した。

→モスクワでインターン→半年未満でベルリンに戻る→学生ビザ復活するも生活費を稼ぐため半年後に就職→学生ビザから雇用ビザに切り替え

インターンとはいえ、モスクワでは月々給料をもらっていたこともあり、ドイツに戻ってからバイトをしながら学生でいるという綱渡りをしたいと思えなくなってしまった。あそこで踏ん張って大学を卒業できていればよかったのだろうけれど、当時の自分にはそれができなかった。今、同じ状況でも多分同じ決断をしているだろう。

滞在許可に関する法律も移民に対する考え方も当時とは比べ物にならないくらい変化してきたように思う。久しぶりの移民局だったが建物の構造も待合室の場所もほとんど変わってはいなかった。ドイツ語もよくわからず、待合室でひとりでポツンと座りながら心許なかった当時の自分をちょっと懐かしく思い出した。




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ベルリンのまりこさん
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