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「多様性」なんて簡単には言えない

やはり主に子どもや若者、スポーツ好きな大人相手であるスポーツ担当とは違い、住人のベッドが設置されているホール担当はいろいろと大変である。今週は二連続夜勤に続き、遅番が続いたので若干疲労気味。ホールが続くと精神的にもぐったりである。

昨日は15時前に到着したのだが同僚に声をかけると、どうやら昨晩、女性同士で引っ掻き合いの喧嘩があったらしい。引っ掻き合いの喧嘩なんて大人がするものではないと思っていたのだがどうやらそうでもないらしい。自分の中では小学校低学年かそれ以下のレベルの喧嘩の仕方である。ただ、一度揉め事の中に入ったことがあるので、思い当たる顔が数人浮かんだ。

あぁ、またあの辺の女性たちが揉めたんだろうな…

今から2年半前はまだロシアがウクライナに侵攻していなかったので(実際は2014年からきな臭かったわけだが)担当ホールにはアラブ系とクルド系のトルコ人たちが難民として暮らしていたらしい。そして案の定、ある晩双方がぶつかり100人ほどが大暴れし、メディアでも取り上げられるほどの騒ぎになったことがあるんだとか。

なぜ初めから揉めるであろう彼らを同じホールにしようと思ったのかはわからない。そこまで想像力が働かなかったのか、オーガナイズが間に合わなかったのか。恐らくいろんな原因が重なった上に起こるべくして起こったのだろう。その後、もちろん棲み分けが行われホールを別にしたところ、以後は大きな問題は起こらなくなったそうである。

では、今の状況はどうか。これまた同じ原理でウクライナ人と主にルーマニアから流れてくるロマ族(ジプシー)を同じホールに振り分けているのが原因なのではないかと思う。余りにも文化的な相違があるので同じ屋根の下で暮らすのはどう頑張っても難しいように見える。そもそも、どちら側にも歩み寄るとか理解する、とかリスペクトする、という概念がないのだ。

まだ1ヶ月未満しか経っていないので何とも言えないが、ロマの人々はとにかく何かあればすぐに大声で叫んで主張をするが他人の意見を聞こうという態度は皆無。学校で教育を受けていないため読み書きができない人がほとんど。私たちが持つ「子どもの躾」という概念が恐らく欠落している、というかない。ただ生きる力や仲間同士の結束は人一倍強い、そんな印象である。これはあくまでも個人的な印象なのであしからず。

ロマについてここでは詳しく触れないが別ブログに機会があれば一度まとめてみたいと思っている。ドイツが難民センターに彼らを受け入れる理由としてはナチス政権の迫害の対象であったということが挙げられるのではないかと思う。

巷で一人歩きしているように見える「多様性」だが水と油が交わらないようにそもそも初めから相容れない文化的相違、というものが存在するようにしか思えない。その点を理解しようとしないで表面的な「多様性」のみを追求しても摩擦が頻発し双方が疲弊するばかりなのではないだろうか。まさに今現在のベルリンがそうなりつつあるのではと危惧している。

そんなことをカウンターにものすごい剣幕で乗り込んできた引っ掻き傷だらけの女性の顔を見ながら思うなどした。



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