2000年の今頃
ちょうど今頃の季節に書かれたであろう覚え書き。当時住んでいたシャルロッテンブルク地区のアパートから徒歩圏内にあったお気に入りのカフェで書いたのだろう。地元住民に愛されたCafé Savignyの落ち着いた雰囲気が好きだったが、残念ながら今はもうない。物書きが集まるようなこじんまりとしたカフェだった。
2000年だからまだベルリンに来て5年くらい。ドイツ語もロシア語もままならず、「これ」といった明確な目的が見えずベルリンで葛藤していた頃だ。そういう状態でなぜかモスクワでさらに不自由なロシア語を使って仕事をする羽目になったのだから人生よくわからない。
今だったら、即座に断っている案件でしかない。医療機関の受付をロシア語でって、どう考えてもメチャクチャである。ロシアには住んだことさえなく、ベルリンの大学で2年半学んだだけ。しかも全く自信がないレベルなのだから。病院側の言い分は「1年半も探したけれどロシア語・英語・日本語の3カ国後を話せる人が見つからなかった。」である。そんなことを言われても困る。
日常会話と医療用語では段違いなのは目に見えている。その上「受付兼通訳」という採用枠だった。思い出しただけで胃が痛いとはまさにこのこと。通訳に対する抵抗があるのもこの経験からだろうか。適当に訳す、とか無理なんですよ、患者さんの健康やら命が掛かってるわけなので。
結局、力不足とクリニックマネージャーが交代になったことで半年未満でベルリンに舞い戻るわけなんだけれど、今から思い返しても摩訶不思議な人事採用だったな、と思う。なんとなく「モスクワで働いて生活してみたらどんな感じだろう。」と妄想していたタイミングと合致したわけなので。
それにしても「新しい生活が待っている!」ってベルリン生活5年目にして思っていたとは。1995年から2000年までは隙あらばモスクワに行くという、落ち着きのない生活ぶりだったというのに。大学に行きながらバイトをしていたギャラリーのキュレーターにも「やりたいことを絞らないとね」と苦言をもらったほど。相当フラフラしているように見えたのだろう。
そのギャラリーでバイト、というのもオランダ人のキュレーターから電話をもらって誘われたのだ。90年代というのはいろんな意味で緩かった。友人が「ベルリンに住む日本人」みたいな記事をTAZに載せたことがきっかけだった。「記事を読んだんだけど、うちのギャラリーで働いてみない?」そんなふうに尋ねられた。ネットもデータ保護法などもない時代。新聞記事を読んで記者に連絡をするだけで、個人の電話番号が聞き出せたのだ。今では考えられないし、「うちで働いてみない?」なんて知らない誰かから電話がかかってくることなんて想像もできない。掛かってきたとしても詐欺か何かだと思うだけだろう。
あの頃はよかったなぁ、ということではなく、本当に時代が変わったんだな、と最近つくづく感じることが増えた。便利になった分、何かが希薄で味気なくなった気がしないでもない。