雑誌に載らないお台場・有明観光 [06] - 台場の街と向き合い続ける慰霊碑
お台場海浜公園から台場公園へ向かう際、石碑があるのはご存じでしょうか。
もっとも、その慰霊碑は木々に遮られていることから気付くことも少ないと考えられます。
臨海副都心として人々が訪れる現在、とてもひっそりとしています。
そんな石碑の存在も、紛れもなく土地の歴史だったりします。
今回はお台場海浜公園に佇むとある慰霊碑のお話です。
慰霊碑の場所
お台場海浜公園のうち、元は旧防波堤だった場所に位置します。
先に書いたとおり、通路沿いからは木々に遮られています。
真ん中右に並ぶ木々の辺りに台場の街と向き合う慰霊碑が見つかります。
水域と向き合う側へ回ると見つけやすいですね。
慰霊碑をめぐる歴史
慰霊碑には碑文が刻まれています。
関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲が起きた際、元々は隅田川河口近くに位置していたこの旧防波堤 (※現在は陸続きでお台場海浜公園の一部)には、水の流れに乗って犠牲者の遺体が流れ着いたのだそうです。
それを故富川栄氏をはじめとした有志の方々が1945年夏から慰霊会を立ち上げ、一帯には卒塔婆群が設けられたのでした。公園整備などで移動したこともあるそうですが、現在の慰霊碑と並ぶエノキの近くに卒塔婆がかけられていたそうです。
河口の先にあるということ
現在はレインボーブリッジが通り、周囲も埋立地だらけになりました。
隅田川から?と言われてもピンと来ないかもしれませんが、当時はこの旧防波堤が東京港でもっとも海側にせり出した場所でした。
海の流れには疎いものの、なんとなく位置関係は理解出来ますね。
1946年当時、旧防波堤はまだ海の孤島でした。
副都心開発と時の流れが生んだ慰霊碑
慰霊祭を行っていた方々の高齢化が進み、かたや碑文の通り臨海副都心開発に伴うお台場海浜公園の再整備も始まります。墓地のような状態となっていた一帯が持つ種々の問題や歴史として残し続けたい意向が重なり苦労があったようですが、最終的には1993年に行われた最後の慰霊祭の後、慰霊は都の施設へ移管されました。
そうして犠牲者と慰霊の事実を後世に伝えるべく、この慰霊碑が建てられたのでした。
終わりに:地形が変わればピンとこない話
現在は周囲に多数の埋め立て地があり、公園を訪れる殆どの人はここが旧防波堤(鳥の島)と同じとは気づかないことでしょう。
埋立地によって地続きとなり地形や海の景色が変わった現在、かつて発生した災害や戦災の面影は殆ど見られないように感じます。 それでもこの慰霊碑の存在は、かつての出来事を今に伝え続ける貴重な存在と言えます。
台場の街を向いている碑には一体何が見えているのか…。
そんなことを感じながら後にしました。
参考資料:雑誌「都市公園」掲載の「お台場海浜公園史」
次回予告:7/19(金)
国際展示場駅のアレ、知ってました?
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参考:お台場オブジェ・モニュメントマップ
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