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当たり前と思うこと。

 自分は発達障害、とりわけADHDではないかと思うことが過去に何度かあった。

 それは、幼い時から何でもないことに疑問を感じることや、皆が普通に出来ていることが出来ないことなど、日々の日常の生きづらさからそう感じていた。

 幼い時から、当たり前、という言葉が苦手だった。それは自分自身、当たり前が分からなかったからかも知れない。そんな自分を正当化しようと、いつしか当たり前をネガティブな言葉だと決めつけていた。

 でも、最近気付いた。当たり前って武道でいう型なんだって。皆が気にしないだけで、当たり前って実は凄い大事なことなんだって。みんなは当たり前のこと過ぎて、は?って思ってるかも知んないけど自分の中では相対性理論よりも大発見だった。

 当たり前の自分で居よう。と思ったのがここ最近。別に落ち度など微塵も感じていない。「だって当たり前だもん」この言葉で全てに一区切りが付けられる。まるで小学校の図工室に置いてある用紙を何百枚も一気に裁断できるアレみたいに一気に。その後の堂々巡りの思考回路に陥らなくて済む。

 発達障害の人とそうじゃない人の違いって「当たり前」を自分の中に持っているか持ってないかじゃない?って思う。当たり前には2種類あって、①自分の中の当たり前 ②世の中の当たり前
この2つの天秤が釣り合っている人間が、1番生きやすい人間なのかなって感じる。(人生経験が豊富になればなるほど2つが釣り合うように出来ている。①が重い人が人生経験が浅い人、②が重い人が義務教育脳、①も②もない人が1番生きにくい人、つまり発達障害。
(全くなんの裏付けもない暴論だけど許して

 当たり前、という言葉は世間的にあまり好ましく思われてないのが現状だけど、個人的に大切な言葉だと思う。例えば、何か行動しようとして取り掛かろうとする時に、ドグマや強迫観念や不安感に覆われたとして、本来なら止める所が、「当たり前」って納得すれば、そのまま行動を続けられる。(これはとても主観的で抽象的観念だから伝わりそうにないなぁ...

「当たり前とは肯定のこと」

 自分も実は当たり前を持っていた。それを出さなかっただけで、ちゃんと均衡のとれた天秤があった。ずっと、当たり前の自分、ありのままの自分でいることで傷つくのが怖くて、誇張し大きく強く見せた自分で生きてきた。でもそんなんじゃ人は寄ってこない訳だ。

欠点を見せることを恐れてはいけない。不完全さはリアルであり、人はリアルなものに反応するのだ。だから、僕たちはいつまでも変わらないプラスチックの花より、萎れてしまう本物の花が好きなのだ。byシロクマ日報

 

自分の中の当たり前を信じてください。そして全てを当たり前と肯定してください。不安や後悔に取り憑かれても、当たり前!と裁断してください。常に当たり前だと納得してください。

そうすれば、少しは世界があなたの味方をしてくれる気がします。当たり前に。

ご愛読ありがとうございました。



 

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