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温帯と熱帯のはざまで

これはもはや、スコールなんじゃないだろうか。

今年の夏、私の住む街では、夕方になるたびに雷が鳴っている。
決まった時間時間に律儀にやってくる雷雲と土砂降りは、夕立というにはあまりに激しく、ゲリラ豪雨というにはあまりに規則的だ。

ほら、こう書いている間にも、空が暗くなってきた。

西の空から灰色のぶ厚い雲がなだれ込むようにやってきて屋根の上を覆い、その中心で鋭い光がひらめく。
きたきた、と、腰窓に近づき手をかける。滑りの悪いすりガラスの窓の向こうでは、昼間の日差しをたっぷり蓄えた空気が、ゆるいゼリーのようにわだかまっていた。

ごろごろごろ、と低く響く雷鳴が何度か聞こえてきたあと、ざあっと雨が降り出した。少し先の景色が水煙に霞んで見えるくらいの、激しい雨だった。
突如現れた大量の水に押されて行き先を失ったかのように、冷房の利いた部屋の中へと外気が押し寄せてくる。両の腕で抱えられそうなくらいの、重く、熱く、湿り気を帯びた、質量を伴う空気のかたまり。雨のにおいがする。火傷しそうに熱いコンクリートが急激に冷やされて放つ、夏の雨のにおい。

外で大雨に降られるのはごめんだけれど、部屋の中から眺めるのは好きだ。大好き、といってもいい。大粒の雨にざぶざぶと洗われる街。もはや滝のような雨音と、遠く近くに響く雷の音を聞いていると、私の住むマンションの一室が建物から切り離されて荒れた海を漂っているような、不思議な孤独感に陥る。

湿り気に満ち、もったりした空気をかき分けるようにして、窓の外へ思い切り手を伸ばしてみる。掌にぼたぼたと生暖かい水滴がこぼれるけれど、身につけたTシャツは乾いたまま。にわかに暗くなった空の下にあって、天井に取り付けられたシーリングライトは秩序の象徴のように煌々とあかるい。無性にうれしくなる。ここは安全だ。私の方舟。

満足して窓を閉めようとすると、桟のところに何かが貼り付いていることに気づいた。なんだろう。

よくよく見ると、それは植物の蔓だった。それもよく古い洋館を覆っているようなか弱いアイビーなどではなく、赤とも茶色ともつかない枝色をした、ワイルドな感じの太いつる植物だ。いくつにも枝分かれし、外壁をつたい建物の下へと伸びるそれは、つやつやと肉厚な、大きな葉をたくわえている。

うちの外壁に、植物なんて這ってはいなかったと思うのだけれど。窓から顔を出してもっとよく見ようとしたら、首筋を何かにくすぐられた。見上げると、窓の上の庇からも植物が垂れ下がっている。羊歯に似た細かな葉をびっしりとつけた細い茎が何本も、カーテンのようにたっぷりとしだれて、私の頭上に覆いかぶさったのだ。青い匂い。葉先から垂れた雨粒がだらだらと首筋を伝い、衣服の中に流れ込んでくる。

こんなものは、先ほどまではなかった。

狼狽して首を引っ込めた。例の太いつる植物はいまや室内へ入り込まんばかりに繁茂し、がっちりと窓枠を抑え込んでしまっていて、窓が閉められない。
雨音に混じって、軋むような音がした。すぐ向かいに建っている二階建てのアパートの屋根から、驚くべき速度でめりめりと巨大な蘇鉄の木が生えてくる。何本も何本も。タイムラプス動画を見ているようで、思わず見入ってしまう。水煙のむこうの出来事のはずなのに、その姿はやけにはっきりとしていた。頑健なうろこ状の棘に覆われた徳利のような形の太い幹、その上に密集した細い葉が、びしょびしょと降る雨をいっぱいに受けてしなり、揺れ、歓喜に満ちて踊っているさまに目を奪われる。アパートの外壁をびっしりと覆っているのは、我が家の外壁を這っているのとはまた違った種類の植物だ。周囲の建物はいつのまにか、同じように多種多様な木や草や花の根城となっていた。

ごうごうという雨の音。角の民家のブロック塀が、得体のしれない捻れた幹に突き崩される。見知った街が緑に覆いつくされていく。我が家と向かいのアパートを隔てる道路は、濁った川に姿を変えている。どれだけ雨が降っても、気温は高いままだ。いっそう湿度を増したねばつくような空気が、肌にまとわりついてくる。エアコンが吐き出す冷気は、今やなんの役にも立たない。強い匂いがする。濃密な土の匂い。雨水に洗われた植物の、むせかえるような匂い。なぜか無性にそれを、なつかしいもののように感じる。

向かいのアパートの屋上、生い茂った植物の間で何かが動いた。金色に光る、肉食獣の眼がこちらを見据えている。頭上で白々と輝くシーリングライトが、疎ましくて仕方ない。外はとろりとあたたかな薄闇と、生命の気配に満ち満ちているというのに。光から逃れるように窓から身を乗り出し、まとわりつく雨と、大気と、闇の中で思い切り口をあけた。大きく息を吸う。長く甲高い獣の叫びが耳をつんざく。雨はまだ、当分やみそうにない。


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