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クリエイターとしての姿勢

「いま、円盤(CDアルバム)が売れない時代と言われていますが、消費者が判断して、本当に価値あるものであれば、対価を支払って購入するものだと私は思います。」

これは、私の好きなあるミュージシャンが話していた話です。

彼は職人気質が強いアーティストで、彼の言葉の中には私のものづくりに対する姿勢の根幹を基礎付けてくれたものが数多く存在します。

この考え方、私が続けているネットラジオ、ものづくり一般にも当てはまることなのではないか、と思います。

彼はこうも言います。

「音楽というのはその人の感受性が出来るに至る履歴も含めてはじめて出会ったときに良い悪いが判断出来るようなバックボーンが出来た上で反応するものですから、もし私の音楽に自然に出会って良いと思えないのなら、無理矢理薦めないでください。
例えば、私は、外に出てBGMで、USENが、J-POPが流れてると非常に不愉快になります。大嫌いだからです。大嫌いだし、気持ち悪いです。あんな上っ面、上部だけの作文のような言葉を並べたものを良い大人達が寄ってたかって作って、しかも商品化してそれを買う人がいるのが今でも信じられません。ああ言ったものを私が薦められたら完全に拒否します。
ですから、そういうのを好む人たちにとっても私の音楽は気持ち悪いと思うと思うので無理に薦めないで下さい。」

人には生きてきた過程で培ってきた感受性のバックボーンがあり、音楽と自然と出会ったときにこそ、音楽が人の感受性に響くと彼は言うのです。

ものづくりによって出来た創作物、それって人それぞれに響く瞬間との巡り合わせのようなものがあると思います。作品に触れる時期が違えば響くものも響かない。

私がよく聴いている80年代のインディーズ音楽というのは、収益が大前提ではなかった。コミュニケーションのための音楽であって、収益は後から結果として付いてきた。アーティストとリスナーの作品を通じたコミュニケーションが成立する世界。
今のインディーズはメジャーへの登竜門のようなもので、ネットでインフルエンサー未満のクリエイターが青田買いされ、プロになるなんてことが珍しくない時代になっている。が、彼らはどうも目的を履き違えているような気がしてならない。

クリエイターから、そう言う結果を意図的に狙ってコンテンツを作っている自分を見て欲しい。と言ったような悪臭が漂って来るのが個人的に気に入らない。

自分でやりたいことなんて自分でやれるじゃないか。好きなものを作る。それが誰かの目にとまる。それは結果論にすぎないのではないか。意図的に狙って作るものではない。

私は好きなものをただ作りたいだけです。それを流行らせたい、有名になって評価を受けたいと言う気はさらさらない。

聴きたい人が聴きたい時に聴いてくれる。その人が気に入ったらまた聴いてくれる。ただそれだけで良いのです。私は音楽だって、気に入ったものがあれば、アーティストの経歴を調べて、お金を払ってアルバムを買います。アーティストも私に評価されてお金を払ってもらうことを最初から意図して創作していない。だからこそ、そこにアーティストとリスナーのコミュニケーションが成立する。そういうコンテンツに私は心惹かれる。自分や作品を知ってもらうために意図的なコミュニケーションはしない。アーティストとリスナーの間に生まれるコミュニケーションは自然発生的なものであるからこそ、良好なコンテンツが構築出来るのではないだろうか。

多くの人に届くものを、評価されるものを作る必要性はないのです。評価されるために誰かに気を遣うこともないのです。その必要性も感じません。

そう言うものを狙って作り出したら面白味の欠片もないただの雑味のあるコンテンツが生まれる。そうなった場合には、クリエイターとしての私は終わりなのではないかと思っています。必要のないことはしたくない。それをするくらいならば、止めた方がマシだと私は思います。勿論、私の個人的な姿勢なので、違う考えのクリエイターを否定するつもりは毛頭ありません。

そもそも、人気になる方法、評価される方法、売れる方法、好きなものを作る時間があるのに、そんな話をすることに時間を費やしたくない。

聴いた人が本当に価値あるものと評価してくれたのであれば、その人が自然と手にとって親しんでくれる。そんなものが作れれば良い。それをラジオでもnoteでも仕切りに言葉にしているつもりでいます。聴かれる聴かれないは結果論で良いのです。

以上が、私の根幹にあるクリエイターとしての姿勢です。

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