一方に良い顔をすれば
一方に良い顔をすれば、他方に良く思われない。
世の中の上手な立ち回り方って難しいよね。
例えば、職場の上司が二人居ますと。上司は自分が経験したことを元に後輩への指導を行いますが、その上司は畑違いの出身で、お互いに方針が全く噛み合いません。周りの同僚たちは自分の持つ価値観と近い方の上司の下に付いており、いつの間にか対立するグループが形成されていました。
そんな状況に置かれた際、貴方はどうしますか?
人は現実でもネットでも集団で動くことがありますね。集団と言うのはある一定の目的を持った上での人の集まりです。
人的な結び付きであり、金銭的な繋がりなどと言った何かしらの利害関係がなければ、結び付きが希薄になりがちな団体です。
人が集まって何かしらのコミュニティが出来上がれば、目的の違う他のコミュニティとの溝も出来上がるでしょう。派閥などと言う言葉も耳にしますね。
そんな派閥の狭間で動いている人はどのような立ち回りをすべきなのか。
どちらにも良い顔をして上手いこと立ち回れと言う人もいれば、どちらか一方に加担して筋を通しなさいと言う人もいるのではないかと思います。
勿論、自分の中で確固たる信念がある場合はその信念に従って行動しても損はないと思いますが、どちらかに付くことが義や利に叶うものでもない場合、得策ではない場合、時として日和見をしたくなると言う気持ちも芽生えるのではないかと思います。
日和見と言う言葉を聞くと自分の意思を表明せず、どちらにも付かないと言ったマイナスのイメージが湧いてしまうような気がします。この日和見と言う言葉、果たしてマイナスなイメージ一辺倒でしょうか?日和見すべき状態になった時に私の中で思い浮かぶ言葉があります。
洞ケ峠を決め込む
洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込むと言う言葉をご存知ですか?
信念を持たずに形勢をうかがって、いつでも優勢なほうに荷担できるように、待機する狡猾(こうかつ)な態度をいう。と言う意味の言葉です。
安土桃山時代。織田信長の没後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と明智光秀が京都の山崎で対陣したとき、筒井順慶(つついじゅんけい)と言う武将が天王山の南にある洞ケ峠に布陣して、勝敗の行くえを見守り、有利なほうに荷担しようとした故事に由来する言葉です。
私は、この筒井順慶が取ったとされる行動も人間が取るべき行いとして、決して非合理的なものではなかったのではないかと思っています。
山崎の戦いは結果的には羽柴方の勝利で終わります。この後に信長の後継者を決める清洲会議が行われて織田家の後継者が決まるものの、実質的には秀吉が信長の仇討ちを決め、その地位を確固たるものとした天下分け目の戦いが山崎の戦いになります(この戦いにおいての重要拠点であった天王山を羽柴方が明智方に先んじて制し、勝利に繋げたことに由来する言葉で「天王山を迎える」などと言う言葉もありますね。)。
お互いに対立している集団から私の方に付いて戦えと言われた時に、どちらか一方に加担して負けてしまった場合、どのような扱いを受けるか分かりません。先程の話は時代が時代ですから、場合によっては一族郎党、命を奪われることになるかもしれなかった訳です。
そのような最悪のリスクを自分自身に呼び込まないためには時として日和見を行うことも決して悪いことではないのではないか、派閥の狭間での上手な立ち回り方、上手な世渡りの仕方の1つの見本となるのではないでしょうか。
時としては、明確な意見表明をしないことも得策となる場合があるのかなと。今日はそんなことを考えた次第です。
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