私家版 ロックかるた 「は」
どうしても欲しくて、でも売っていない。だから、自分で作ってしまった「私家版 ロックかるた ブリティッシュ・ロック編」。
世界にたった1セット。
プログレ系のミュージシャンは、皆そろって演奏技術が高い真のプロフェッショナルぞろい。
バンドのひとつやふたつが解散しても、そのメンバーのうち何人かが集まれば、すぐにスーパーグループの完成です。
さて、1982年、キング・クリムゾンのジョン・ウエットン、イエスのスティーヴ・ハウとジェフ・ダウンズ、ELPのカール・パーマーという、泣く子も黙るメンバーが集まって出来上がったのが、スーパーグループ「エイジア」。
ファーストアルバムでまずまずの成功を収め、83年、初の来日も決まりました。
ところが、ジョン・ウエットンがアルコール依存症でグループを解雇されてしまいます。代わりに入ったのがELPのグレッグ・レイク。
それでも、やっぱりスーパーグループです。
グレッグ・レイクも、ELPなんですから十分すごいのですが、さらに元をたどれば、キング・クリムゾンの初代ボーカル&ベーシスト。
プログレ・エリートですね。
このグレッグ・レイクのボーカルでエイジアは無事初来日。
「ASIA IN ASIA」と銘打った武道館公演は、米国にも同時中継されました。
ただ、楽曲がジョン・ウエットンの声域に合わせて作られたものだったので、グレッグ・レイクは歌うのが大変だったようです。
ステージ上のレイクは、ずーっと目の前のモニターに映し出される歌詞を読みながら歌っていました。
斜め後ろの席からその様子を見ていた私が言うのですから、本当です。
そんな苦労をしたのに、結局翌84年、レイクはウエットンとまた交代。
ASIAは元通りに。
そして、その翌年の85年。そのグレッグ・レイクとキース・エマーソンが、ELP再結成を画策するのです。
問題はカール・パーマー。
彼はエイジアの創設メンバーです。
サード・アルバムもそこそこ売れて、彼はそのままエイジアを続けるつもりでした。
だからELP再結成には参加できない。
困ったグレッグ・レイクとキース・エマーソン。
そこで白羽の矢が立ったのが、コージー・パウエルでした。
「P」だからちょうどよい……。
かなり不純な動機ですが、本当のお話みたいです。
ここでパウエルの歩みについて簡単にまとめてみますと。
キャリアのスタートは、かのジェフ・ベック・グループです。
オーディションで、その腕前をベックに認められました。大したもんです。
本当に上手な人しか入れませんよ、ジェフ・ベック・グループには。
そのジェフ・ベック・グループ解散後は、スーパーギタリスト、リッチー・ブラックモアのレインボー、マイケル・シェンカー・グループ、ホワイト・スネークとハードロックの人気バンドで大活躍。
派手なパフォーマンスでドラム少年のハートをつかんで離しませんでした。
バスドラを2つ踏み鳴らすんです。
ドッカン、ドッカン。
迫力が、すごいんですよ。
稀代のハードヒッターです。
そして、もはや伝説となったプログレ・バンド、ELP再結成のお誘いです。
「P」ですから、そのままELPで決まりです! たいへん都合がよい!
……ところが、そこに「ちょっと待ったー!」と声がかかりました。
ELPの「P」は未来永劫パーマーの「P」だ。勝手にELPを名乗ることは許さん! 裁判だ!
カール・パーマーが「ELP」という呼称の使用を許さなかったのです。
これにはどうしようもありません。
仕方ないので「ELP」は使わず、「エマーソン・レイク&パウエル」というフルネームだけで活動を開始することになりました。
だけど、売れなかったんですよね。まったく。アルバムを1枚を出しただけで、あえなく解散となりました。
「エマーソン・レイク&パウエル」かー。ふーん。
それだけで、楽曲には驚きやときめきがなかったことを覚えています。
渡り鳥と呼ばれたパウエル。その後もブラック・サバスやブライアン・メイなどと活動します。
そして自動車の自損事故でこの世を去ります。
酔っぱらい運転の速度超過だったみたいです。享年51。残念。
(つづく)
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