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ビートルズ風雲録(22) 1961年の悩み

1961年が始まりました。
ハンブルクで鍛え上げられた演奏技術とパフォーマンスで観客を魅了し始めた我らがビートルズ。
ちょっとひっかかる問題を3つ抱えたまま、ライブ活動は続きます。


ポール、仕事とバンド、どちらを取るのか?

まじめなポールは、昼はコイル巻き工場で働き、夜はライブ活動と、二足の草鞋で頑張っています。
少しずつ忙しくなるビートルズにあって、昼間は会社勤めなのですから、そりゃ身体もキツイ。
一番頑張らなければならないコイル巻きの技術もまったく向上しません。
どっちつかずのポール。さあ、どうするんだ?

そんな状態で、1961年2月9日、ビートルズとして初めての、あのキャバーンクラブでのライブが決まります。
この初ステージは、昼の12時から14時。
木曜日の昼間です。ポールには、もちろん仕事があります。
その日、ジョンとジョージがポールの働くマッセイ&コギンズ社を訪れます。
「キャバーンの仕事が入った。一緒に来い!」
とジョン。
ポールは一瞬躊躇するも、結局、壁を乗り越えて脱走。
ライブをこなし、そのまま壁を越えて職場に戻ります。
その後もビートルズが昼の仕事を受けるたにびに、ポールは工場の壁を越えて仕事をさぼる。
もちろん職場の上司からはこっぴどく叱られる。
そんなことがいつまでも通じるわけがありません。
2月28日、ジョンはポールに最後通告をします。
「工場をやめるか、バンドに残るか。どっちを選ぶんだ?」
この日、昼にはキャバーン、続いてカサノバ・クラブ、そしてリザーランド・タウン・ホールとステージは続きます。
途中で工場に戻ることは許されません。
ポールは決断しました。
厳格な父親に反抗することになりますが、ポールは昼のステージに駆けつけます。
会社は辞めることになりました。
この時、ポールが工場で真面目に働く道を選んでいたら、あの『ヘイ・ジュード』も『レット・イット・ビー』も、生まれていなかったのかも。
そもそも、ビートルズ自体が早々に解散していたかも。
歴史のIFイフですね。

1つめの問題は、こうしてクリアされました。

スチュワート・サトクリフ、美術と音楽、どちらを取るのか?

1961年1月20日、ハンブルクからスチュワート・サトクリフが帰国します。
これでビートルズは元の5人に戻りました。
ポールは、あまりやりたくはなかったベース担当をスチュに戻します。
初めてのキャバーンのステージはこの5人で勤めました。
この後、二足の草鞋のポールは、めでたく工場をやめ、ビートルズに専念することになりました。
しかしスチュは、結局音楽には、あまり興味を持てなかったようです。
2月23日には学校の美術の教師の資格を取るため、リバプール美術大学を受験しています。

スチュの演奏技術ではプロでは通用しない。
親友のジョンも、スチュ自身もそれはわかっていました。
そもそも、ジョンとポールなんて天才たちといっしょにいたら、よほど自分の才能に自信がない限り、やる気をなくすのが普通かもしれませんが。

そして美術大学の試験は? 残念ながら、結果は不合格。
このころから、スチュは原因不明の頭痛に悩まされていたのです。
不良どもとのけんか、というか、ほぼ一方的にボコられたこともありましたが、そのときに頭を強く打っていたとも言われています。

1961年3月中旬、スチュはハンブルクで待つドイツ人の恋人、アストリッド・キルヒャーのもとに戻ります。
4月1日から始まるビートルズのトップ・テン・クラブでのステージの準備のためでした。
法的な処理など、60年のときのような強制退去にはならないよう万全に体勢を整え、メンバーを待ちます。

果たしてハンブルクでのライブは大盛況。
大成功に終わったハンブルク遠征でしたが、スチュはドイツに残ることを決めます。

恋人の存在はもちろん大きかったと思いますが、やはり美術で生きていきたかった。
結局スチュは、この年の6月にハンブルグ美術大学への入学を決めます。

7月1日、トップテンクラブの最終公演を終え、メンバーは翌2日にリバプールに戻りました。
どっちつかずだったスチュの決断。彼はドイツに残ることになります。これによりポールがベースを担当することになりました。
これはスチュ自身にとってもビートルズにとっても、最善の選択だったかもしれません。

しかし、翌62年2月、スチュはせっかく入った美術大学を退学。
そして4月10日、突然の脳出血で亡くなってしまいます。
彼は、このときも原因不明の頭痛に悩まされていたそうです。

この死の翌日、ビートルズの面々は3回目の巡業のためにハンブルクを訪れます。
空港に迎えに来たスチュの恋人キルヒャー。彼女がスチュの死をメンバーに伝えます。
親友のジョンの心の動揺はどれほどだったのか。伺い知ることができません。
彼は葬儀への参列や献花を自粛します。
悲しすぎる。スチュの死を認めたくない。それほどのショックだったのではないでしょうか?

スチュは、ビートルズの最高傑作と言われるアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のジャケットに、元ビートルズのメンバーとして唯一登場しています。後ろから3列目の左端です。

2つ目の問題は、悲しい結末を迎えました。

ドラマーはピート・ベストでいいのか?

3つ目の問題はドラマーです。
ハンブルク遠征から戻るやいなや、リバプールで人気バンドとなったビートルズ。
そんなメンバーにも、不満がありました。
もっとビッグになりたい。音楽で成功したい。
しかし、バンドとして、どうにもしっくり行かない部分がある。
最初のハンブルク遠征のときから、そう感じていました。
うちのバンドはドラムが弱い。なにより、感性が合わない。
ジョン・ポール・ジョージは、何も語り合わなくても、しっくりくる。わかり合える。
だけど、ピートはどこか違う。
センスが合わないんだ。
3人とも、口には出せませんが、同じように感じていたようです。
1961年、この年を通してピートはビートルズのドラマーとして活躍し、それは62年8月まで続きます。
この3つ目の問題に結論が出るには、多くの時間と、カギを握る新たな登場人物が必要でした。

ブライアン・エプスタインとジョージ・マーティンです。

(つづく)

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