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NotoNote #1|かほく

NotoNoteは、2024年1月1日以後の能登半島と東京に住む「私」についての文章です。
地震に関する生々しい写真や表現は避けるようにしていますが、不安な方は「今なら大丈夫」と思える時を待ってからお読みください。

2024年7月
はじめて、かほく市に行った。名前しか知らなかった「かほく」。

昔ながらの瓦屋根と新しいまつげサロンが混じった町。
途中で見つけたちょっと立派なお寺には、御神輿やししまいの頭があった。
細い下り坂の先に見える、静かな海。

カレー屋さん。高速道路と思しき鉄のかたまりと車の列。その大きな通りを横切った先の静けさ。住宅街。
突然あらわれる、おしゃれなカレー屋さん。

その道をずっと進んだ先には、小さな砂漠があった。表面がなめらか。あの砂の山は、なにに使うんだろう?

また、小さく細い道を下る。

ぱっと視界が開けた。
遠くの農地まで、ずっと見渡せる。空が大きい。

目の下には家、家、家たち。とても古そうな瓦屋根のもの、ちょっと古そうなもの、今っぽいもの。
視界の端で、白いタンクトップが干されている。

「かほく」は、どうしてひらがななんだろう。なんとなく、新しいにおいを感じる。
「かほく」という名前と、あの古そうな家は、どっちが年上なのかしら。

階段を使いながら、細い道をさらに下る。
石がぼこぼこ、ごつごつで、転がり落ちそう。
ああ、そうか。私は今、山の斜面を下っている。

私が下った階段とほとんど直角に、道路が現れた。たまに車が目の前を横切る。今度は、その道を歩いてみる。

家に貼られた「危険」の文字。静けさ。増えていく「危険」。

少し傾いた柱。瓦にかぶさったブルーシート。下に瓦が落ちているところ。
視線を上げて道の先を見ると、ああ、世界がぐにゃりと歪んだ。
電柱、階段、建物、自分
どれが水平か分からない。なぜだか美術の教科書にのっていた、シュルレアリスムの絵を思い出す。

公民館。ところどころ、コンクリートにひびが入っている。地面が盛り上がっているところも。
花壇には「ひまわり会」の立札と、立札を覆い隠してしまうほどに咲き誇る花花。

Googleマップで、この道の先にクレープ屋さんを見つけた。
「さすがに開いてないかな」とつぶやく私たちの予想を裏切って、「OPEN」の文字。

木でできたかわいらしい建物に入ると、エアコンがよくきいていた。
紅茶生地のパタークレープと冷たいほうじ茶を注文する。

「このお店は、いつからあるんですか?」
「2、3年前……ですかね」
「地震、よく大丈夫でしたね」
「そうですね、新しい建物なので。少しだけお休みしましたけど、1月まるまる全部休むってことはなくて」
「そうでしたか」
「心配してくださってありがとうございます」
「いえ、おいしかったです。また来ます」

クレープ屋さんを出て歩くと、「立入禁止」。
その奥、遠く、遠くに、小さく神社が見えた。
とても小さく見えたのは、距離が離れていたからか、隣が更地だったからか、神社自体が小さかったのか。

さらに歩くと、今度はお寺。足元がぬかるんでいる。灯籠があったと思しき2つの穴。転がった2つの石。

この町が過ごした長い長い時間を、このお寺は見守ってきたのだと思う。あの日より前を、あの日を、それから今日までを。たぶん、これからも。
境内まで進んで、手を合わせる。
伝えたい言葉が出てこない。

隣の家から、人が出てきた。
「こんにちは」と会釈する。

「見に来たんですか? 観光?」
「まあ、そんな感じで、東京から…….」
用意していなかった言葉をもやもやと返すと、その人はこのあたりのことを教えてくれた。

昔は、山がもう少し近くまであったこと。
削って土地を広げたことで、地下水の流れが変わったこと。
そのために水が土のすぐ下を通るようになって、地盤がゆるい一帯になったこと。

「このあたり、まだ人は入っていますか?」
「いやもう、全然。住めないところもあるし。比較的新しい家はいいんだけどね」

右手にもう少し行って内灘も見るといいよ、と教えてくださる。

私たちは、川を目指して進路を変えた。視界がまた、開けてきた。
西陽を反射して、きらきらする水面。ずっとずっと広がる畑、大きな空。
どちらの方を向いても自然が大きくて、ただ黙りこむ。

それは、私がずっと出会いたかった景色だった。
大きく広がる空が、大地が、見たかった。
いつからか、いつの間にか、ずっとそう願っていた気がする。

小さな飛行機が、すーっと遠くを飛んでいる。

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