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2023.8|いちばん勇気を出した〈場〉

8月
沖縄県立芸術大学で開催された、リサーチ型プロジェクト〈message in a bottle〉に行ってみた。

12個の中で、いちばん勇気を出した〈場〉だった。

〈message in a bottle〉は、島/沖縄にクローズアップした多角的なリサーチをし、それに基づく展示を制作するプログラムである。

主催者は沖縄県立芸術大学の阪田清子先生で、2名の講師を招いてそれぞれのプログラムを開講するかたちだった。
2名の講師は、アーティストの儀間朝龍さんと瀬尾夏美さん。

対象はどうやら大学院生・社会人以上だったので、大学4年生の私はぎりぎりアウトだった。でも、「なんとか入れてもらえないかな~」と思って応募してみた。
数日後に阪田先生からお電話があり、「聴講生でも大丈夫ですか?」と聞いてくださった。
ありがたいことに、プログラムに参加できることになった。


勇気と、楽観と、そのしりぬぐい

世の中には2種類の人間がいる。
勇気を出せる者と、そうでない者だ。

と仮定したとき、私自身は前者に属する人間だと思っている。
でも、これには続きがある。

勇気を出せる者の中にはさらに2種類の人間がいる。
勇気を出したあと計画的に動く者と、そうでない者だ。

これに関して、私は絶対に後者である。
勇気を出して飛び込んだはいいものの、飛び込んだことに満足してしまってその後の計画がたてられない。
結局、まともに計画を立てなかった自分ののしりぬぐいに、ひたすら気持ちと労力を割くことになる。

8月の沖縄滞在はまさにそんな感じで、徹頭徹尾あぶなっかしい旅だった。


とりあえず、勇気を出した私の話を最初にしておきたい。

沖縄県立芸術大学のリサーチ型プロジェクト〈message in a bottle〉を見つけたのは、例によって(?)瀬尾夏美さんのTwitterだった。
わたしの〈知らない場〉訪問は、4分の1が瀬尾さんに支えられている。

瀬尾さんは〈message in a bottle〉のゲスト講師で、沖縄のフィールドワークをしながらアート作品を作っていくプログラムを担当していた。

わたしはこれまで、沖縄に行ったこととがなかった。でも、ずっと行ってみたいと思っていた。

沖縄は私にとって特別だった。
アジア・太平洋戦争のことを考えるとき、沖縄はやっぱり他の土地とは違っていて、独特の複雑さを抱えていると感じていた。
「抱えていた」ではなく「抱えている」。
現在進行形だとも思っていた。

また、フィールドワークにもアート制作にも関心があった。
大学生活終盤になってからようやく、「記憶が受け継がれる〈場〉に身体を使って関わりたい」という想いが生まれ始めたためである。

さらに、会場である沖縄県立芸術大学は、ビデオアーティスト 山城知佳子さんの母校だった。
私は彼女に勝手にあこがれていてとても尊敬していて、卒業論文で山城さんやその作品を扱うことも決めていた。
彼女の作品や思想が、どんな土地で育まれてきたのか知りたいと思った。

まとめてしまえば、〈message in a bottle〉は私のためのプロジェクトだと思った。
だから、告知を見た瞬間「行こう」と決めた。


でもなんだか心がふわふわしてしまって、一旦パートナーに電話してみた。

「わたし、8月のおわりごろに5日間くらい沖縄に行こうと思ってるんだけど、いいかな?」

なんの許可?という感じである。
「この人は背中を押してほしいのだろうな」と察したのか、彼は「それは行っておいでよ」と言ってくれた。ありがとう。

でも直前になって、やっぱり怖くなった。
なにが大変なのか、どんな準備をしなくてはいけないのかが最後までよく分からずにずっとふわふわしていた。

なにより、ふわふわしている自分が1番怖かった。

とりあえず、沖縄のいろんな場所をGoogleマップにピン止めしていった。
それを見守っているパートナーとは、次のような会話が何度も交わされた。

「ゆづ、空港と泊まる場所の間はどうやって移動するの?」
「……どうやって移動するんだろうね?」

「沖縄ではどうやって移動するの?」
「うーん......車借りた方がいいのかな?」
「えっ? 1週間後には行くんでしょ???」

私のあぶなっかしさに、彼もさぞかしヒヤヒヤしたことだろう。
夏なのでちょうどいい。


沖縄についたら、暗かった。
21時半につく飛行機に乗ったのだから、あたりまえである。
知らない沖縄の道を夜に歩くのは、想像以上に怖かった。
次は絶対明るい時間につく飛行機を取ろう。

泊まる場所は、ドミトリーみたいな感じだった。
受付時間は終わっていて、ラウンジに宿泊者が集まっていた。
ひとまず鍵だけ受け取って、チェックインは翌日朝にする。というか、ここ、ほとんど外国の人しかいないのね?
日本語が聞こえてこなさすぎて不安になる。

翌朝。あらためてチェックインをしに行った。
確認された宿泊の日程は、1日足りていなかった。日にちを間違えて予約してしまったらしい。
「さすが私だな~」と思いながら、1日分の延長料金を払って、泊まれる手配をしてもらった。よかった。

沖縄県芸に行くのは午後からだったので午前中は観光、をしていたわけではない。
なんと私は、2週間後に教育実習を控えていた。指導案を作らなくてはならない。
空き時間はとにかくドミトリーにこもって、実習の準備をしていた。
途中で必要な教材がたりないと分かり、東京の書店に電話して取り置いてもらうなどした。

心身が疲れすぎて、まともにご飯をたべていなかった。もうお昼の時間なのに、沖縄についてからまだファミチキしか食べていない。
とりあえず時間になったので、沖縄県芸に向かった。

そろそろみなさん飽きてきたかと思うので、ここからのどたばたは割愛する。

簡単にまとめると、私は3日目の夜あたりに体調が悪くなり、4日目の昼間に飛行機で東京に帰った。
沖縄でできた知り合いは、まだ出会って日が浅いのに、私の体調不良を知ってたくさん心配してくれた。
「必要なものがあったら届けるよ」と、いろんな人が声をかけてくれた。

東京の家族や知り合いたちも心配してくれた。
飛行機を手配して羽田空港まで迎えに来てくれたり、不安がる私と電話で話してくれたり、優しい言葉をたくさんかけてくれたりした。

みなさまお騒がせしました。本当にありがとう。

結末を決めるのは自分だと思う

たぶん私の沖縄旅行の話を聞くと、だいたいの人が「大変だったんだな」と思うだろう。本当に大変だった。
特に体調不良のくだりはめちゃくちゃ同情された。自分でも同情しちゃう。

でも私は(強がりではなく本当に)沖縄に行けてよかったと思っている。
すごくすごくよかったと思っている。

なぜなら、プロジェクトの中でとてもわくわくする出会いがあったから。

そこで出会った彼女は、私と同い年だった。
はじめにも書いたがこのプロジェクトは大学院生・社会人以上が対象なので、学部生が参加しているのはめずらしい。
彼女も沖縄県外から飛行機で来ていて、初めての沖縄訪問だった。

また彼女は、私と同じように戦争に関心があり、その体験を受け継ぐことに関心があった。
「自分が最初に沖縄に行くときは、観光以外がいいなと思ってんだ」と話してくれた。

まわりに同じような関心を持つ同世代がいなかった私は、彼女と友だちになれたことが本当にうれしかった。
そして、これからこの人と、なにか面白いことができたらどんなにいいだろうと思った。

だから東京に帰ることになったとき、「今回のプロジェクトの続きについて報告してほしい」という名目で、オンラインでお話したいと伝えた。

プロジェクトの中で面白かったことはもちろん、卒論のこと、進路のこと、悩んでいること、いろいろなことを2時間くらいたくさん話した。
「2人でなにかできたらうれしいね」と言って、電話を切った。

それからも定期的な電話が続いて、1か月ほどしたころに「とりあえず読書会をしてみよう」という話にまとまった。
他にも彼女とやりたいことがたくさんあって、すごく幸せだなと思った。

彼女が東京に来たときは、展示を見に行ったり、アイスを食べたりした。

私が途中で帰ったからこそ今があるのかもしれない、と思ったりする。
でもそんなハッピーエンドを作れたのは、「電話したいな」と勇気を出して連絡してくれた、あの時の私のおかげだと思う。

生きていれば大変なことや思い通りにいかないことはいろいろあるのだけれど、最終的な結末を決められるのは自分だけ。ハッピーエンドを作れるのは、自分だけだと思う。

たくさんの偶然の出会いや引き合わせてくれた人びと、いつも支えてくれるみんなに感謝しながら同時に、自分にもたくさん感謝した。

〈message in a bottle〉について少しだけ

もう1つ大切な出会いがあった。

meesage in a bottle
「投壜通信」というモチーフの出会いである。

「投壜通信」は、プログラムのタイトル〈message in a bottle〉を邦訳した言葉である。
このモチーフは読んで字のごとく、遭難した船乗りが、手紙をつめた壜(びん)を海へ投げ入れる行いが由来だ。

伊東潤一郎さんが書いた本のタイトルにもあるが、投壜通信は「誰でもよいあなたへ」宛てて書かれる。
そして海へ投げ入れられ、ゆらゆらと漂い、どこかの岸辺にたどり着く。

投壜通信は、20世紀の詩人たちが好んで語ったモチーフでもあった。
その中には、パウル・ツェランがいた。
ツェランは、私が大学院の授業を聴講するなかで気になり始めた詩人だったので、不思議な運命を感じた。

誰かが死んだあとも残り続けている記憶には、いろいろな在り方がある。

ある人が自分の子どもへ、ある人の子どもが自分の子どもへ、ある人の子どもの子どもがさらに自分の子どもへ、と伝わっていく在り方。

大きな大きな記念碑をつくって、毎年同じ時間にみんなで手を合わせるような在り方。

こつこつと日記を残して、何十年も経ってからひょっこり発見される在り方。

「投壜通信的在り方」も、ひとつの記憶の残り方である。
考えたこともなかった「誰でもよいあなたへ」記憶を残すという方法に、不思議と強く惹かれた。

投壜通信的在り方を自分の言葉で語るにはまだ至らないのだけれど、もう少し長く付き合っていたいモチーフだと感じた。


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